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研究紹介

特集 「匿名社会」座談会


 公益に関する情報が隠され、地域社会では命にかかわる情報さえ共有できない……。昨年4月の個人情報保護法の全面施行以降、法の趣旨をはき違えた過剰反応や 情報の出し渋りが問題となっている。
 拡大する「匿名社会」の現状をどうとらえ、何をすべきか。ジャーナリストの江川紹子氏、法の制定に深くかかわった堀部政男氏、「安心社会」から「信頼社会」への 移行を説く山岸俊男氏が語り合った。(司会は五阿弥宏安・東京本社社会部長)

過剰な個人情報隠し…「匿名社会」座談会(上)

 ――個人情報保護法の全面施行以後、個人情報であれば何でも提供してはいけない、という誤った考えが広がっている。身近で経験した過剰反応は。
 江川 障害を持った女性に「保護法のために仕事を失った」と聞いた。勤め先から営業先の名簿を預かって資料をそろえる在宅の仕事だったが、「名簿を外へ 出して法に触れると言われると困るので」と言われたという。女性は職業倫理を持って働いており、流出などさせる訳がないが、契約社員ではだめだということだった。 ひどい話だ。
 ――保護法のそもそもの目的は何か。
 堀部 個人情報の有用性に配慮しつつ個人の権利利益を守る、つまり、利用と保護のバランスを図るルールを定めようというものだ。国際的には日本は20年以上 遅れており、保護法がないことは人権意識の低さの表れと見られていた。21世紀に入りようやく法律が出来たことが混乱を招いたと思う。もっと早い時期に、情報公開と セットで議論していれば、混乱も起こらなかったのではないか。
 ――利用と保護のバランスをとるのが法の目的なのに、保護だけに重点が置かれ、過剰反応が起きている。
 江川 耐震偽装事件の元建築士の聴聞内容を開示しないのは、あきれた官による情報隠しだ。「個人情報」というキーワードが現れる前は、「プライバシー」が 理由にされた。例えば刑事裁判の確定記録は、元々は誰でも見られるとされていたが、プライバシーという考えから制限された。個人情報はさらに強烈なキーワードで、取材 への支障を懸念してはいたが、ここまで人を思考停止にする力を持つとは思わなかった。
 山岸 過剰反応には三つの側面がある。一つは法を都合良く解釈し、役所が情報を隠そうとする動きで、弁解の余地はないと思う。二つ目は、法がよく理解出来ず 情報を出さない「事なかれ主義」。もう一つは、実害がなくても、とにかく自分の情報を出したくないという傾向が国民の間で強まっていることだ。
 ――法律制定にかかわった立場から見て、現状はどう映るか。
 堀部 法の全面施行以降、「学校の緊急連絡網を作ってはだめなのか」など様々な質問が来るようになり、「過剰反応ですね」と答えている。法は保護と利用の バランスをとっているが、実際に一般の人が法律を読んで行動するかと言えばそうではない。現場では、法律より各省庁が作ったガイドライン(指針)や解説書に基づいて 議論しがちで、木を見て森を見ない対応になりやすい。民間事業者が開催する研修会なども、影響が大きい。個人情報ビジネスがブームになるとは、予測しなかった。
 ――そうした個人情報ビジネスの場で、漏洩(ろうえい)の危険性や不安感があおられている面があるのか。
 堀部 かなり危機感をあおっている。これも過剰反応につながっている。
 江川 見知らぬ所からダイレクトメールが来たり、勧誘電話があったりというのはイヤなものだが、一向になくならない。ある時、「私の電話番号をなぜ知った のか」と聞くと、「うちは保護法に基づいて名簿を買っておりますから」と言われた。法の趣旨を分かっていない。
 堀部 法の軽視、無視も多くみられる。この法律では、事業者への罰則は大臣の命令に従わなかったときに初めて下されるが、ヨーロッパに比べれば、はるかに 軽い。個人情報を使ってもうけた方が得だと、抜け道を考える人もいる。
 江川 悪いヤツは取り締まれず、まともな人が生きにくくなっている。法律が何を目的としているか伝わらず、個人情報保護という言葉だけが独り歩きして いる。

 ◆過剰反応などの実例◆
 【公務員、公益に関する情報】懲戒免職者や国家試験合格者、耐震偽装事件の元建築士への聴聞内容、省庁幹部の経歴、地方議員の連絡先などの匿名化や非開示。
 【生命、身体にかかわる情報】子どもの虐待情報が民生委員に伝わらない。独り暮らしの高齢者ら災害弱者の情報が自治会で共有でき ない。医療機関が、介護に必要な情報を福祉施設などに教えない。
 【学校で】緊急連絡網や卒業アルバムを廃止。校長や担任の住所も教えない。校内の展示作品から子どもの名前を消す。
 【地域で】表札が消え、国勢調査や社会調査への非協力が増加。
 【事件・事故】消防が出火場所の住所番地を明らかにしない。警視庁、道府県警のほぼ半数が、被害者を原則匿名扱い。

(2006年2月27日1時33分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6000/news/20060226ic24.htm



根底に漠然とした不安…「匿名社会」座談会(中)

 ――個人情報保護法の全面施行後、多くの過剰反応が起きている背景に、個人情報とプライバシーが混同されている面はないか。
 堀部 それはある。両者は重なるが、違う概念だ。日本に最初入ってきたのはプライバシーで、他人の私生活をのぞき見するような記事に対抗する訴訟の中で 主張された。以後、プライバシーは表現の自由とのバランスをどう取るかという点から議論されてきた。一方、個人情報は、1970年代にヨーロッパで情報保護の立法 をする過程で、プライバシーの定義が難しいので、制度化するなら比較的範囲が明確な「パーソナルデータ」、つまり、個人情報にしようという考えから出てきた。
 ――個人情報には、守られるべきものと有効利用されるものがあるのに、なぜ、このような過剰保護の傾向が強まるのか。
 山岸 伝統的な共同体では、お互いの情報は筒抜けだ。あなたは私を、私はあなたをコントロールできるからお互いひどいことはできないと、そうして秩序を 保っていた。その「安心社会」が限界を迎え、新たな社会秩序が必要になった。だが、安心社会に慣れた人は、見知らぬ人が自分のことを知っているのに、自分はその ことをコントロールできないので大きな不安を感じ、情報を提供するメリットに目が行かなくなる。これはかなり根深いもので、進化的な基盤も関係がある。
 ――進化的な基盤とは?
 山岸 不思議なことに、人間には類人猿の中で唯一、白目の部分がある。(瞳が)どこを見ているか分かり、スキを見せてしまうから不利なのに、なぜ白目を 進化させたのか。それは、他者に目を見てもらう必要があるからだ。「私には悪意がない」と伝えることが、社会を作るのに重要だった。
 白目を見せないのは、サングラスをかけることと同じだ。今まで安心を提供していた閉ざされた社会が崩れることへの不安が強くなりすぎ、皆、サングラスをかける。 これが今起きていることで、それで社会を営めるのかというのが匿名社会の問題点だ。社会的ジレンマの一種で、皆、不安に駆られて情報を出さなくなれば社会は成り 立たない。
 ――伝統的なムラ社会も企業も崩壊し、次のステップが見えていない不安感があるということか。
 江川 犯罪の認知件数が減っても「体感治安」は悪化している。振り込め詐欺とかカード偽造とか個人情報を悪用する事件の情報は、必要ではあるが、不安を 高める役割も果たす。漠然とした不安に包まれて今の人たちは生きている。
 堀部 歴史的には、工業化社会になって個人主義が強まり、さらに都市化が社会の変容をもたらして、プライバシーが権利として主張されはじめ、守るべきもの となった。一方、情報化社会では情報が大量に瞬時に駆け巡り、悪用の例もキリがない。その恐れを考えると、過剰反応も起きる。個人情報を悪用してもうけてやろうと いう例は、80年代からあった。どうしてもルールは必要になる。
 江川 これまでは顔が見える人とだけつき合っていたのが、インターネットの普及が進み、顔が見えない人とのやり取りが増えている。自分が一度発信した情報 がどこにどう伝達されていくのか見えないことが、不安や警戒心をより強めているのではないか。
 山岸 弱者を保護するために個人情報を出さないようにしても、犯罪を企てるような人間はどんな手段を使っても“獲物”を探し出すだろう。それより、犯罪に どのように対処していくのかを教える教育のほうが重要だ。〈つづく〉

 ◆プライバシーと個人情報
 プライバシーは一般に、個人の私生活に関すること、それをみだりに公開されない権利などとされる。個人情報は、氏名、年齢、性別、住所、職業のほか、写真や映像、 評価など個人に関するすべての情報を指すが、保護法では「生存する個人に関する情報で、特定の個人を識別できるもの」と規定している。

(2006年2月28日10時48分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6000/news/20060228ic01.htm



情報共有し信頼社会へ…「匿名社会」座談会(下)

 ――匿名社会を乗り越えるための方策を考えたい。
 山岸 互いに行動を縛り合う社会が成り立たなくなった今、顔見知りの範囲を超えて信頼を醸成するために情報を出し合い、社会を透明化することが重要だ と思う。情報の透明化を通して効率的に社会を運営していくのが、「信頼社会」だ。
 ――信頼社会を作るには何が必要か。
 山岸 情報開示を進め、隠すことが不利になるシステムを作らなくてはいけない。信頼社会に移行するかどうかは、情報を積極的に出すメリットを皆が理解する かどうかにかかっている。弱者が身を守るには互いにまとまって助け合うことが有効だが、不安に駆られて情報を出そうとしないため、今は助け合いさえ出来なくなって いる。
 ――弱者を守る仕組み作りが立ち遅れていないか。
 堀部 保護法だけでは対応できない。個人情報の悪用、高齢者や子どもの被害を防ぐには、新たな制度面での枠組みが必要になる。情報の共有には、それぞれが 個人情報を管理し、守るという意識がないといけない。日本ではそれが育ってこなかった面もある。個人情報の利用と保護のバランスを図っていくには一般市民の理解が 不可欠で、メディアの役割も大きい。
 ――何を守り、何を共有すべきか、きちんと考える必要がある。
 山岸 その区別はとても重要だ。弱者には、いろいろな形のプロテクト(保護)を提供しなければならない。一方、情報を発信するメリットにも目を向けないと いけない。
 ――個人情報がある程度広まっていることを前提に、子どものころから消費者教育をする必要性は。
 江川 より良い人生を送るための知恵を得ていくことも教育の目的で、若い世代への消費者教育は大事だ。「情報弱者」をどう保護するかも重要で、独り暮らし の高齢者が財産を奪われないよう、相談できる人をつけるような制度を充実させるべきだと思う。
 堀部 自治体の役割も大きい。最近、神奈川県は、個人情報の保護と利用のバランスを図ることを訴える手引を作り、配布しはじめた。ただ、全体としては、消費 者問題は軽視されており、課題は多い。
 山岸 今、日本人の倫理観の低下が言われるが、崩れているのは武士道、無私の精神、公共奉仕、忠誠であり、この「統治(政治)の倫理」の崩壊に人々は不安 を感じている。だが個人情報がかかわるのは、「お互いがうまくいくようにしよう」という商人道で、「市場(商人)の倫理」。その確立はこれからだ。一方的に プロテクトせず、必要なものは共有し、円滑に運ぼうとする倫理観を育てることが重要だろう。
 ――個人情報保護法の運用見直しが始まっている。現状と見通しは。
 堀部 保護法の見直しは必要だ。施行後3年をめどに検討することになっており、国民生活審議会の個人情報保護部会で、来年夏までに見直すべき点は見直す 方向で議論していく。
 ――官の情報隠しには、もっと情報公開を利用して対抗しなければと思う。
 江川 どんな社会に住みたいのか、一人一人が考えることが大事だ。匿名社会なのか、透明社会なのか。今はあるべき社会の全体像が見えず、目の前の問題に とらわれてしまっている。官の情報隠しに対しては、知る権利がどれほど大切なものなのか、憲法が出来た時にもう一度戻って考え、行動する必要がある。知る権利が 制約されつつある現状と、その行き着く先はどうなるのかを訴えなければならない。ルール作りはそこから始まる。

(2006年2月28日23時48分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6000/news/20060228ic25.htm

 【出席者】(敬称略)
 江川紹子(ジャーナリスト)、堀部政男(中央大法科大学院教授)、山岸俊男(北海道大大学院教授)、司会=五阿弥宏安(東京本社社会部長)


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