v 在日外国人の社会保障
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研究紹介

在日外国人の社会保障


■ 毎日新聞 特集記事

「排外」を問う 在日外国人無年金訴訟
(京都地方版)

12月10日  1 「障害」辛く苦しいのは同じ
12月15日  2 置き去りにされた高齢者
12月17日  3 何でうちらに与えられへんの
12月18日  4 生活に精いっぱい
12月19日  5 70歳超えても働き詰め
12月21日  6 「排除する理由が…」

   
1 「障害」辛く苦しいのは同じ
◇「社会保障は当然の権利」

 日本人だけを対象としてきた国民年金制度から排除され、今も無年金のまま放置されている府内の在日コリアン1世6人が21日、京都地裁に国家賠償訴訟を起こす。 大阪高裁で係争中の在日外国人障害者と、大阪地裁で審理が進む在日高齢者に続く集団訴訟だ。今月3日の臨時国会で「無年金障害者の救済」を掲げる議員立法「特定 障害者給付金法」が成立したが、対象は元学生と主婦の日本人に限られ、在日の人たちはまたも排除された。捨て置かれ続ける現実に抗い、声を上げる人々。 その訴えは、この国の一面を浮き彫りにしている。【中村一成】

 私たちだけ先送りはなぜですか? 障害があって日本に住むのに。日本人も外国人も辛く苦しいのは同じです。差別の論理はいいかげんやめてください。 私たちは日本で暮らすしか生きていけません。障害の程度こそあれみんな生活に困窮し、生きるのに疲れています。日本に住む障害者として、安心できる日本社会に して下さい。
 在日を排除した給付金法案が衆院を通過しようとしていた11月16日、千代田区の衆院議員会館で緊急集会が開かれた。出席した野党議員や秘書に対し、在日 コリアン3世の金順喜(キムスニ)さん(43)=南区=は、当事者の思いを訴えていた。
 脳性まひ1種1級の「障害者」。友人たちに年金支給が始まった養護学校の高等部時代、この国で外国人である意味を思い知らされた。間もなく日本は難民条約を 批准し、国籍条項は撤廃された。「等しく扱われるのでは」。だが期待は打ち砕かれた。20歳以上は一律に切り捨てられていた。
 植民地支配で押し付けた国籍を戦後、一方的に奪い、外国籍を理由に社会保障からも排除する。今も続く負の歴史。その清算に、この国は余りにも消極的だったと 思う。国会では付帯決議もされ、02年12月には超党派の議員連盟も結成された。でも、この問題は国会では常に「後回し」にされた。「ぬか喜びの繰り返しだった」 と金さんは振り返る。
 今年に入り、立法府が重い腰を上げた。学生無年金訴訟で相次いだ違憲判決がきっかけだ。同趣旨の訴えをした在日障害者の訴訟は「立法府の裁量」で切り捨てられる 一方、日本人原告の声は司法、そして国会を動かす。そして「救済」を掲げた法案の対象は日本人のみ。「『またや』が率直な感想。戦後補償がなされない限り、問題は 解決しないとも思っている」
 「行ってどうなるのか」。何度も繰り返し、それでもと自分を奮い立たせて参加した国会議員との集会。議員連盟発足時に集まった有力議員のうち数人は欠席して いた。腹立たしくて、机の向こうにいた議員たちの表情は覚えていない。「あなたたちはどんな思いでこの場にいるんだ。話を聞いてそれでどうなるんだ」。そんな 思いでいっぱいだった。
 法案が成立した12月3日、京都司法記者室で抗議の記者会見が開かれた。金さんも出席し、当事者として発言した。「難しい言葉を並べるか、あるいは感情に任せて 話そうかとも考えたけど、率直な思いを整理した言葉で訴えた方がいいと。分かってほしかった」。記者とカメラを前に、金さんは院内集会の時の原稿を両手で握り、 読み上げた。電動車椅子に座った小柄な体から発する声は、時に詰まり、次第に震え始める。そして最後に言った。
 「今日、このような残念な結果になりました。このような在日抜きの救済法に私たちは強く、強く抗議します」
     ×
 「悔しいわ」。会見後、在日障害者訴訟原告団長、金洙栄(キムスヨン)さん(52)=上京区=が語った。昨年8月、京都地裁が請求を棄却した後、勤め先が倒産、 ごみ収集の仕事を失った。同じく聴覚障害者の妻(50)も無年金。はしかの後遺症で障害者となった金団長の身に責任を感じ、自らに保険金を掛け自殺未遂をした母 も84歳。同じく無年金。金団長には高1から小6まで3人の子どもがいる。もし3人が日本人なら月計20万円を超える年金に子の加算が上乗せされるが、それは かなわない。
 「ただ、公正にしてもらいたいだけなのに」
 会見で金団長が強調したのは、母の世代の苦境だった。「在日高齢者は日本の植民地支配による苦労を最も負った世代。社会の中で差別され、多くは劣悪な環境に 追いやられてきた。それでもなお必死に働き、税金も納めてきています。それなのに、戦後補償はおろか、住民として当然の権利である社会保障の平等さえ守られて いない」(つづきは15日の予定です)

◇社会保障の国籍条項
 日本の社会保障は国籍条項による外国籍者排除の一面を持つ。敗戦でGHQ(連合国軍総司令部)の占領下に置かれた日本政府は、憲法施行前日の1947年5月2日、 「外国人登録令」で、旧植民地出身者らを「外国人」とみなし管理対象とした。52年、サンフランシスコ講和条約発効で占領が終わると、旧植民地出身者の国籍を一片 の局長通達ではく奪。以降の国民年金法(59年)や児童扶養手当法(61年)などの社会保障法には国籍条項を明記した。東京サミットで議長国を務めた79年、国際 人権規約批准を機に外国籍者を排除していた公営住宅への入居が開放され、81年の難民条約批准で国民年金法と児童3法から国籍条項が撤廃された。「共生社会」の 基盤整備は、常に外圧で「前進」してきたといえる。

毎日新聞 2004年12月10日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/archive/news/2004/12/10/20041210ddlk26070734000c.html


   
2 置き去りにされた高齢者
◇経済苦で要介護認定も拒む

 色紙で作られた、たくさんの小さなチマ・チョゴリが宙を舞うように飾り付けられ、その横には色鮮やかな張り絵がある。満開のサクラの下、幸せそうに寄り添う ハルモニ(おばあさん)とハラボジ(おじいさん)。赤、桃、緑、黄……。朝鮮伝統の虹模様「セットン」を思わせる色彩が、デイサービスセンターの中を温かい 雰囲気で満たしている。
 「エルファ」。うれしい時に発する朝鮮語の感嘆詞を施設名にした南区東九条の在日生活支援センターを11月10日、来日中の国連人権高等弁務官のルイーズ・ アルブールさん(57)が視察に訪れた。
 歓迎する在日高齢者らで室内はいっぱい。ほぼ全員が植民地時代の朝鮮に生まれ、宗主国の収奪で「内地」日本に渡ってきた。一人ずつ立ち上がり、自己紹介するが、 あふれ出そうな思いと、持ち時間との間に戸惑う。もどかしそうな表情を浮かべ、結局、「いろんなことがありました」と話を結んだりしてしまう。
 理事長の鄭禧淳(チョンヒスン)さん(61)=伏見区=がルイーズさんに語ったのは、司法に訴えざるを得ない無年金者の窮状だった。府内2カ所の出先を含む 利用者計約60人のうち、約3割は無年金で、半数以上が生活保護を受ける。「民族学校の問題は海外でも知られているが無年金問題は違う。だが戦後約60年たっても、 生存権すら保障されない高齢者や障害者がいるのです」
     ×
 エルファを満たす故郷の色彩と温かい空気は、それとは逆の人生を強いられた高齢者の姿を目の当たりにしてきた鄭さんの思いを反映している。
 在日2世として愛知県瀬戸市に生まれた。日韓条約が結ばれた65年に朝鮮大学校(東京都)を卒業し、以降、近畿圏で識字活動や生活相談をしてきた。目にした のは、所得保障もなく、差別と偏見、言語や文化の違いから地域でも孤立する高齢者の姿だった。「歴史的背景から識字率が低く、情報へのアクセスが難しい。高齢者 施設に行っても日本人利用者から戦争時代の自慢話を聞かされて傷つく人もいた」
 介護保険実施直前のこと。「また置き去りにされる」と、直感で行動した。99年11月、居宅サービス事業所を設立し、1年間で98人を家庭訪問した。ある1世 の独居女性の家へ行くと、役所から介護保険の資料が届いていた。車椅子とベッドのお年寄り2人を子どもや若者たちが笑顔で取り囲んでいる冊子の表紙を見せながら、 彼女は鄭さんに聞いた。「この人の誕生祝いなんか?」。胸が痛んだ。中には痴呆が進んで日本語を忘れ、2世、3世の家族とも言葉が通じず暴力的になる人や、逆に 内に閉じこもる人もいた。日本人を前提としたサービスでは対応できない現実を痛感した。
 介護保険制度スタートの00年4月、訪問介護を始めた。関係法を学び、朝鮮語の出来るヘルパーを派遣した。重度の糖尿病を案じて福祉関係者が配食サービスを 手配したが、受け取り印を拒み続ける在日高齢者がいると相談を受けた。朝鮮語を交えて話すと理由が分かった。植民地時代、文字を読めない祖父が日本人の言いなり に判を押し、土地を取り上げられたと聞き、押印に恐怖感を持っていたのだった。無年金による経済苦から自己負担を嫌い、要介護認定を拒む人が今も多い。
 「自然体の自分を生かせる空間で、苦労した先輩に最後の時を過ごしてほしい」。デイサービスでは、食事からレクリエーションまで、故郷に根ざしたサービスを 楽しんでもらう。高齢者生活支援の一環として、訴訟も支援する。原告は全員、これまでの運動を通じた旧知の人たちだ。「日本政府の責任で苦労を強いられ、置き 去りにされた人間として、死ぬ前に声を上げたい。その一心なのです」【中村一成】(つづきは17日の予定です)

◇国民年金法
 「国民皆年金」を掲げ59年に成立した。20〜60歳の間に25年間、加入すれば年金が受給できる仕組み。理屈上、期間を満たせない当時35歳以上の人に 政府は加入期間を短縮したほか、70歳で自動的に支給される無拠出年金「老齢福祉年金」を創設、無年金を防いだ。また、小笠原諸島や沖縄の「本土復帰」や、 さらには中国残留孤児や拉致被害者が帰国した際には特別措置をとっている。
 一方で、同法は国籍要件を設け、条約のあった米国人以外の外国籍者を排除した。社会保障での内外人平等を定めた「難民条約」批准(81年)に伴い、同条項は 削除されたが、政府は日本人同様の経過措置をとらなかった。在日の無年金者は「障害者」が5000人、高齢者が同3万5000人と推計されている。

毎日新聞 2004年12月15日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/news/20041215ddlk26070610000c.html


   
3 何でうちらに与えられへんの
◇四半世紀、沈黙続ける政府

 国民年金法からの国籍条項撤廃時の経過措置の必要性が国会で論じられてから四半世紀近くがたつ。「適切な方策の確立に努める」との付帯決議からも20年を 超える。立法府が沈黙を続ける一方、当事者たちは確実に死去していく。在日コリアン生活支援センター「エルファ」の理事長、鄭禧淳(チョンヒスン)さん(61) =伏見区=が事業開始から4年間で出会った在日高齢者274人のうち、既に26人は鬼籍に入った。
 1905年に日本が朝鮮を実質支配してから来年で100年。在日1世で在日高齢者無年金訴訟原告一人一人の歴史をひもとくと、「日本国民の歴史」の裏面が 浮き上がる。
 「おととしやったかな、六十数年ぶりに行ったけど、みんな変わってしもうた。もう、どこがコヒャン(故郷)なんか分からんわ」。21日に原告に加わる予定の 鄭福芝(チョンボッチ)さん(86)=中京区=は話す。
 1918年、慶尚南道の南海面に生まれた。物心付いた時、父は既に死去。のどかな田園風景が幼少の記憶という。「家に帰ると、つぼの水に浸した渋柿をおやつに 渡され、よく田んぼにスズメを追い払いにいった」。小学校を出た後、伝習所で1年間、綿作りを教えられた。そんな時、大阪の工場が出していた「女工求む」との 新聞広告が目に留まった。日給70銭。「当時は1食10銭で食べられた。3食たべても40銭残る。看護学校にでも通えば将来が開ける気がした」。19歳で単身渡日 した。
 だが、実際の賃金ははるかに低かった。他をあたったが日給50銭でも仕事はない。大阪市内を歩き回り、セメント袋を再生する工場で働いた。「朝6時半から夜6時 過ぎまで。破れた袋とまだ使える袋を仕分け、セメント粉をはたいて裏返しにして縫う。寒いし粉がすごく出るから手ぬぐいを3枚被(かぶ)るけど、それでも粉が入る。 辞めて2週間たっても鼻からセメントが出てきた。それでも50銭にもならなかった」
 将来設計どころではなかった。1年半で京都に移り、21歳で結婚。授かった4人の子どもの1人は死去、61年に夫と、嫁いだ長女を除く息子2人は北朝鮮に「帰国」 した。鄭さんは頼母子講(たのもしこう)の借金がかさみ日本に残った。
 その後は独居で働き詰めだった。嵐山の畑で野菜を作り、大阪市淀川区の問屋街で衣料品を仕入れ、府北部や福井県にまで売りに行った。「く」の字に大きく曲がった 右手中指の第一関節は労働の厳しさを物語る。
 職業安定所で出会う労働者たちがよく年金の話をした。「『今日は年金を納める』という。老後が不安で、自分もかけたかった。うらやましくてたまらなかった」
 90年代、京都市長にあて、10通を超える抗議の手紙を出した。「年金が欲しい。でなければ仕事を欲しい」。何度か返事は来たが「国に申し入れをしている」 「独自給付は困難」ばかり。その後、京都市は独自給付制度を実現(障害者が94年、高齢者が99年)。今年、府も実現に踏み切った。とはいえ額は低く、あくまで 代替措置である。
 歴史的責任を持つ国が解決すべき問題として、鄭さんは生活保護受給を拒んできた。しかし、一昨年12月、ついに申請した。今年まで自分で車を運転し、畑仕事を こなしていた。だが、同年8月、左肩に激しい痛みを感じ、動けなくなった。動脈瘤(りゅう)だった。静岡で暮らす長女が駆けつけて説得、鄭さんは退院時、やはり 拒み続けていた要介護認定を受けた。
 玄関には車椅子がある。これまでの無理がたたったのだろう、入院生活後は足が悪くなり、寝て過ごすことが増えたという。働けなくなってから体重も5キロ減った。 勢いよく話すと顔が紅潮し、苦しそうに大きな息をする。それでも言い切った。「100歳まで生きる。生きて年金をもらう。何でうちらにささやかな金もあたえられん のや」【中村一成】(つづきは18日の予定です)

◇自治体の独自給付
 政府が無年金問題を放置する一方、「過渡的措置」として独自の特別給付制度を設ける自治体もある。市民団体などの調査では、03年5月時点で約750の自治体が 無年金の在日高齢者、障害者の両方、またはいずれかへの給付金制度を設けている。制度は70年代に始まり、日本弁護士連合会が「国際人権規約に違反し、憲法にも 抵触する恐れがある」と国に意見した96年以降に急増した。北海道では全自治体にあり、大阪府、兵庫県内でも導入率が高い。京都府内では全市と12町が制度を設け、 府も実施を決めた。
 だが、金額は高齢者が月額数千円〜1万円程度、障害者は2〜3万円台が多く、月額約3万4000円の老齢福祉年金や約8万3000円の障害基礎年金の半額以下 だ。

毎日新聞 2004年12月17日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/archive/news/2004/12/17/20041217ddlk26070678000c.html


   
4 生活に精いっぱい
◇何度も暮らしの場追われた

 「文字の読み書きもできないから、今まで郵便局と銀行にはいったことないねん」。21日、京都地裁に提起される在日高齢者無年金訴訟で原告参加を予定している 鄭在任(チョンヂェイン)さん(83)=南区=は穏やかな口調で話す。
 慶尚南道で生まれた。既に日本の植民地だった。「最初はタバコ栽培とドブロクが禁止された。天井に隠していた物まで没収された」。嗜好品の管理から始まった支配 は「供出」の名のもとの収奪に進み、農家の暮らしは成りたたなくなる。既に徴用されて「内地」日本で働いていた父を頼り、14歳の時に一家で渡日。「山口の山奥で 炭焼きをしたり、九州の飯場を転々とした」
 故郷でも日本でも学校には行けなかった。生きるため日本語は覚えたが読み書きはできない。後に夜間中学に通ったものの、仕事に追われる毎日では予習も復習もまま ならなかったという。
 敗戦は九州で迎えた。既に結婚していて、夫の親戚を頼り京都で鉄回収を始めた。重い鉄の固まりをリュックに入れて担ぐ。仕事がなくなり家を追い出され、冬の夜に 6人の子どもと野宿したこともある。
 それでも子の教育にはこだわった。長女と次女は「国語講習所」に通わせた。解放後、日本政府に奪われた言葉と文化を取り戻すために在日朝鮮人たちが各地で作った 学びの場である。同様の場は他府県でも急増した。
 だが日本政府は48年1月、在日朝鮮人はいまだ「日本国籍」を有するとして、子どもが朝鮮学校に学ぶことを禁じた。抗議運動は弾圧され、大阪では在日の少年が 警官に射殺された。「勉強してると警察が来て止めさせる。場所を変え、隠れて勉強をする。その繰り返しやった」。今も続く朝鮮学校抑圧の原点だ。
 鉄回収業は70歳前まで続けた。同居していた長男の会社が倒産した。狭心症を抱え治療費も要る。長男夫婦と離れて暮らし、生活保護を受給した。原告参加の理由 を、こう言った。「生活に精いっぱいで年金のことを考える余裕はなかった。でも頑張ってる人たちに連なって、少しでも運動の力になりたい」
     ×
 「全国どこにでも買い出しに行った。闇コメやから、持ったまま駅で降りると捕まる。だから汽車が京都駅に入る前、東山を抜けて鴨川越えたらコメをみんな窓から 外に投げ、後で拾いに行ったんや」。高五生(コオセン)さん(83)=南区=は、終戦直後の混乱期を振り返る。
 10歳のころ、九州で炭鉱夫として働いていた父親を頼って妹と2人、渡日した。労働環境は苛烈だった。4年後、火事を契機に逃げ出し、父の弟を頼って大阪に 向かった。
 18歳で結婚。仕事を転々としながら京都にたどり着いた。「新参者」が就ける職は限られていた。「最初はリヤカーで古紙を集め紙箱を作ったりした」。西陣で何 とか砥石屋に職を得たが追い出され、京都駅南側の東九条に転居。鉄回収工場を構えた。1920年代から、東海道線などの大型工事や、多くの染色工場があり、末端 労働を担う朝鮮人が集住していたうえ、当時は八条通り一帯に闇市群が形成されていた。祖国に帰るつもりで、一時的に立ち寄った1世も多くいた。
 夫は民族団体の活動に没頭し、生計は高さんが担った。30人程の職人を雇っていた時期もあったが、そこも京都市に立ち退きを強いられた。「何とか生活できるように なったら『立ち退け』の繰り返しやった」と憤る。
 高さんも学校には通っていない。カタカナと数字を独学で覚え、商売をこなした。朝鮮語は、民族団体の活動の中で学んだ。息子は北朝鮮に渡った。「止めたけど一本気 でね……」。息子は戦後生まれの2世で、もうすぐ60歳になる。「今も月1回は連絡がある。孫も30歳を越えていて、ひ孫が2人いる」と笑った。
 夫は約30年前、肺がんで死去した。以降、独居だ。今は生活保護を受けている。無年金は「仕方ないと思ってた」とも打ち明ける。植民地支配で故郷から離れ、戦後 は行政によって何度も暮らしの場を追い立てられた身には、日本政府が在日に何かを保障すると考えるのは難しかったのだ。その上で続けた。「でも、悔しいねん。 やっぱり」(つづきは19日の予定)

◇在日高齢者の経済状況
 在日高齢者の生活実態調査はほとんどない。数少ない一つは、大阪市の委託でNPO法人「在日コリアン高齢者福祉をすすめる会大阪」が、同市生野区の70歳以上の 高齢者300人(男性76人、女性223人、不明1人)を対象にした調査(93年9〜12月に実施)だ。主収入を「自身の公的年金」と答えたのは27・1%で、 残り約7割は無年金状態とみられる。43%が「子どもの経済援助」で、在日外国人への特別給付金は20・5%。「自分が働いて得た収入」が18・5%もいた。生活 保護受給者は14%。世帯収入は月10万円未満が全体の5割弱を占める。独居(全体の43・3%)で生活保護を受けていない世帯の月収入は、5万円未満と5万円〜 10万円未満が共に34・8%。15万円未満を加えると全体の8割を占めている。

毎日新聞 2004年12月18日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/news/20041218ddlk26070808000c.html


   
5 70歳超えても働き詰め
◇70歳超えても早朝から働き詰め――障害の子抱え給付金もなく

 今年7月14日、京都市内で京都訴訟の準備会議があった。出席した原告予定者、玄順任(ヒョンスニム)さん(77)=上京区=は弁護士らに訴えた。「障害のある 息子と2人暮らしで、私は市の給付金もない」。原告全員が制度から完全に排除された78歳以上の高齢者である大阪訴訟と違い、京都の原告には経過措置や広報が不十分 だったため無年金となった人もいる。この人たちは自治体の特別給付金の対象からも外される、まさに「狭間の存在」だ。玄さんもその一人である。
 西陣の一角。自宅までの路地を歩くと、所々から織機の音が聞こえる。玄さんも職人をしながら、重度障害者の息子(54)と2人で暮らす。京都の地場産業である 西陣織の現場には、少なからぬ在日コリアンが従事し、末端労働を支えてきた。
 現在の韓国・忠清南道で1926年に生まれた。物心付く前に渡日。二条駅近くに住み、父は石炭を運んでいた。残るのは強烈な被差別体験という。「周りはみんな 朝鮮人が住んでいたけど、近所を出たらいつも日本人の子どもが『チョーセン、ナップン(「悪い奴」の意)、帰れ!』って。父母にすがり『朝鮮に帰ろう』と何回も 泣いた」。父は玄さんを膝に座らせ、言った。「もう帰るところはないんだよ」
 父の家は日本による植民地化で大半の土地を奪われた地主だった。残った田を耕していたが、供出と課税が重くのし掛かる。抗議すると官憲に連行され、半死半生の 目に遭わされた。どうしても支払えず、仕方なく「内地」日本にやってきたのだった。
 数年後に母は死去、弟妹の世話や家事が幼い玄さんの仕事になった。就学していた近所の子から不要になった教科書をもらい、家事の合間を見つけては、トイレで納得 いくまで読み、カタカナとひらがなを覚えた。「私の学校はトイレやった」と笑う。生活苦の中で努力を重ね、朝鮮語の読み書きも習得した。
 大阪府枚方市の火薬工場に徴用されていた夫と終戦後に出会い、結婚した。京都に戻り、終戦前に身に着けた技術を生かし、夫婦で織屋をした。70歳を超えた今も、 早朝から夜まで働く。「織ってなんぼ。仕事があればやっとかんと。なくなったら何の保障もない」
 50歳のころ、区役所に年金申請に行ったことがある。「担当者は『国籍が違う』ばかりで、それ以上の説明はなかった。入れないものと思っていた」。その後、85年 の法改定で玄さんも理論上は加入可能になった。だが当時は、夫が病気で入退院を繰り返し、それどころではなかった。ましてや日本人同様の経過措置もない。当時、在日 コリアンの多くが直面していた貧しさのなか、たとえ月約7000円の掛け金を負担しても、65歳時の受給額は1万円程度だった。77歳以下の数多くの人が、同じ事情 で無年金になっている。
 訴訟では原告団長を務め、日本の近現代史を正面から問うつもりだ。「戦争中は『一体』なんて言って、戦地にも連れ出したのに、戦後は『国籍が違う』で知らんふりや。 私の周りにも南方に行って帰らんかった人もいるのに補償もない。おかしいやないですか」
     ×
 「ここが私たちの生きる故郷。どこにも行くところはない」。原告予定者の金君子(キムクンジャ)さん(75)=宇治市伊勢田町ウトロ=は話す。土地明け渡し訴訟が 敗訴して4年、法的にはいつ強制執行があってもおかしくはない。
 玄さんと同様、既に「内地」日本で働いていた父を追い、母と渡日した。炭鉱を転々とし、大山崎町にあった内務省管轄の炭鉱にたどり着いた。「当時としては珍しい」 と述懐するように、尋常小学校を卒業、松下電器の下請け会社で電池の枠を作っていたという。
 17歳で結婚、ウトロに移った。長屋が並び、一つ屋根の下に2世帯が住む環境。「隔てる敷居の上に電球をつるし、両方で灯りをとる。風が吹き込むから、セメント 袋ですき間をふさいで正月を迎えた。貧しかったけど昼間はよく家の前に新聞紙をひいて、家で作った料理を持ち寄って食べ、歌って踊って楽しく暮らしていた」
 そんな生活を不幸が襲う。スクラップ業をしていた夫が同僚の運転する車の助手席で電柱に衝突、わき腹を強打した。病院に運ばれたが、医療費の負担を気にしてその まま帰宅したのが命取りになった。ほどなく血便が出た、やがて血を吐き、死去した。29歳だった。
 「子ども2人と、夫の兄弟3人を養うた」。ごつごつした手を金さんはさする。側溝工事から建築現場の後片付けまで、何でもやった。1メートル50センチの小柄な 体だが「仕事できんといわれたことはない」。今でも草むしりや落ち葉の掃除をする。
 だが、仕事の合間に病院に通う。腰と膝、歯も衰えた。「年金あったらこの年で仕事なんかしたくないで。そりゃ」
 金さんにとって、裁判は今回が2回目。共通するのは、日本の近現代が正面から問われていることだ。【中村一成】(つづきは21日の予定です)

◇在日高齢者の識字率
 歴史的経緯などで就学機会を失った人が在日1世には多い。NPO法人「在日コリアン高齢者福祉をすすめる会大阪」の実態調査(70歳以上、300人)によると、 「日本語の文章を読める」は44%、「ひらがな、カタカナは読める」が21・2%、「日本語の文章は読めないが、ハングル文字なら部分的に読める」が5・8%。 「日本語の文章、ハングル文字ともに読めない」が29・3%に達した。また、日本語の文章を読める人は、男性が86・5%だが、女性は29・4%にとどまる。文章の 意味の理解までを厳密に問えば、割合はさらに低下が予想される。社会保障制度など、必要な行政情報の多くは郵便や掲示、回覧板などで周知が図られる。在日高齢者の 多くが情報からも取り残されていく構図が浮き彫りになっている。

毎日新聞 2004年12月19日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/news/20041219ddlk26070629000c.html


   
6 「排除する理由が…」
◇「排除する理由が知りたい」――人権は国籍を超えるはず

 傍聴席の椅子のきしみ、資料をくる音で遮られてしまうような小さな声で、応答が続いていた。「年金に入りたいと思いましたか?」「そりゃ、思うわ」「健康保険も 公営住宅にも入れないのをどう思った?」「しゃあないと……、しゃあないと思って、生きていかなしゃあないと」
 12月8日、約50人の傍聴者で埋まった大阪地裁1009号法廷で、在日高齢者無年金大阪訴訟の証人尋問が続いていた。証人は83歳の女性原告だ。10月に脳 こうそくで倒れ入院し、一時は出廷が危ぶまれていた。事前に聴き取りで作成した書面の内容を弁護士が口頭で確認する形で陳述は進んでいった。
 日本の朝鮮半島植民地化による困窮で故郷を離れ、12歳で渡日した。貧困の中を生き抜き、老後を憂い、区役所に年金申請に行けば「韓国人やから」と断られ、 今は年金生活者の長男の家族と同居。自治体の特別給付金と、時に途絶える子どもからの援助計2万円でかろうじて暮らしている。80歳を超え、なおも制度的差別に さらされ続ける現実が浮き彫りになっていた。
 だが、法廷に立った日本の近現代史の生き証人に対し、被告の国側は「不要」として何も聞こうとはせず、原告側が求めていた研究者の尋問も拒んだ。
 国側は書面を通し、請求の棄却を求めている。社会保障の適用は立法府に広範な裁量権があり、合理的な範囲内▽社会保障は国籍国の責任▽帰国しえる外国籍者に掛け金 を納めさせるのは問題がある▽旧植民地出身者らに他の外国人と異なる扱いをすることは不平等で立法上も無理がある−−が主な主張である。
 「結局、違うのは日本国籍の有無だけ。しかし国籍は法律に基づき存在する。社会保障は法律以前の権利であり、後から作った法律で制限するのは倒立した発想だ。 理由にならない」
 京都訴訟の弁護団事務局長で、大阪高裁で係争中の在日外国人「障害者」無年金訴訟の弁護団も務める伊山正和弁護士(31)は批判する。力説するのは、政府が 日本人に対して執った無年金防止措置の手厚さと、一方での旧植民地出身者らに対する扱いの落差である。
 無拠出制の福祉年金創設や再三にわたる加入期間の短縮、受給額是正措置の数々。日本人に執られた施策を「国として当然の措置」と評しつつ、伊山さんは言う。
 「ではなぜ外国人にはない? 本土復帰時の小笠原や沖縄の人々。中国残留孤児や拉致被害者らに特別措置をしたのだから、技術的にも適用は可能なのに、条約のあった 米国人以外には確信犯的に何もしていない。要は在日を排除する思想が根底にあるとしか思えない。なぜここまで徹底的に在日を排除するのか、その理由が知りたい」。 朝鮮学校の処遇改善を求めて活動する若手弁護士グループのメンバーでもある伊山さんの、率直な思いだ。
 京都での提訴に向け、支援団体「在日韓国・朝鮮人の年金裁判を支える会京都」も結成された。5人の共同代表の一人、京都造形芸術大教員の仲尾宏さん(68)は、 国側の主張を「実態を余りに無視している。在日史の欠如だ」と批判する。そして、原告の訴えを立法裁量論で棄却した在日「障害者」無年金訴訟での京都地裁判決を 踏まえて語る。
 「国側は相変わらず立法裁量を主張するのだろう。しかし立法が差別をしたからこそ、原告は裁判に訴えている。司法が立法裁量論で訴えを切り捨てるのなら、 三権分立の否定に等しい」。そして強調する。「人権は国籍を超えるはず。少ないながらも日本が批准してきた国際人権法に対する、司法の認識が問われる試金石が この裁判だ」
 植民地支配によって日本人として生まれ、故郷と言葉から引きはがされたうえ、戦後は国籍を奪われ、戦後補償どころか、社会保障からも排除されてきた人々。そして、 今もその存在に向き合おうとしない国。原告たちの声に、司法はどう答えるのか。その訴訟が21日、京都で始まる。【中村一成】(おわり)

◇無年金をめぐる訴訟
 無年金問題を巡る訴訟では、外国籍者であったことを理由に障害福祉年金の支給を拒まれた大阪市の視覚障害者、塩見日出さん(故人)が73年、憲法14条などに 反するとして大阪府を訴えた、いわゆる「塩見訴訟」がある。2次計約30年に及ぶ訴訟で、最高裁は、社会保障の適用範囲には立法府の広範な裁量権があり、外国人を 対象外とすることは合理的範囲内との「立法裁量論」を用いて訴えを棄却した。また、00年に提訴された在日外国人「障害者」無年金訴訟でも、京都地裁は03年8月、 立法裁量論で請求を棄却した。一方、国民年金が任意加入の時代に未加入で障害を負ったため、障害基礎年金の支給を受けられない日本人の元学生が起こした「学生無 年金訴訟」に対しては、東京、新潟両地裁は立法府の責任を認め、違憲判決を言い渡している。

毎日新聞 2004年12月21日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/news/20041221ddlk26070692000c.html



■医療保障

医療通訳を派遣制度が好評 京都市、制度の拡大を検討
Kyoto Shimbun News Mon, 10 Jan 2005

 病気などで医療機関にかかる外国人住民のために京都市が本年度から始めた、医療通訳を派遣する制度の利用が昨年11月末までに700件近くに上っている。 利用する外国人には「母国語で説明を受けると安心できる」と、好評といい、市は将来的に制度の拡大を検討している。
 医療通訳の派遣は、市国際交流協会、NPO法人(特定非営利活動法人)「多文化共生センターきょうと」と協力し、昨年4月から武田病院(伏見区)でスタート。 9月からは京都市立病院(中京区)が派遣対象に加わった。
 それぞれ毎週3日間、実施している。病院からの事前要請で通訳を派遣する方式だが、市立病院では毎週1回、初診者にも対応する。
 英語か中国語で通訳しているが、11月までの利用は中国語がほとんどで690件を占め、英語は3件だった。通訳を務めるのはボランティアで、医師と患者の やりとりのほかにも受診手続きや薬のもらい方など、幅広いサポートを行う。
 医療用語などの知識もある程度必要なため、「共生センターきょうと」が養成講座を設けており、現在は市内を中心に30人が登録している。
 市立病院などで通訳ボランティアをしている木村宣子さん(35)によると患者からは「安心した」「また利用したい」などの声があるといい、「医療にかかわること なので通訳の責任は重いが、困っている人の役に立てれば」と話している。
 京都市は「将来的には派遣曜日や対象病院の拡大を目指したい」(市国際交流推進室)としている。

外国人住民のために医療通訳通訳を行うボランティア(京都市中京区・市立病院)

◆引用元
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005011000068&genre=O1&area=K10


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