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研究紹介

責任
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■ 薬害エイズ事件無罪判決に思う〜検察側の立証は充分だったのか、という視点〜  江川紹子(2001/03/29)
 薬害エイズ問題の刑事裁判で、業務上過失致死罪に問われた安部英・元帝京大学副学長に対する無罪判決には、私も驚いた。
 被害者たち、報道関係者も、こういう結論は予測していなかったようで、判決を書いた裁判所に対する非難の声が高まっている。しかし、私が見た範囲では、検察側の 立証活動についてどこも言及していない。
 確かに、この裁判に限らず、「市民感覚から離れた司法」(毎日新聞夕刊)の問題点を感じることはしばしばある。
 また、薬害エイズに関しては、私は報道を通じて知るだけの立場だが、そこで紹介されている安部氏自身の声を聞いていても、彼が何の責任も問われないことには、 全く釈然としない。 いったいなぜ、こういう結論が導き出されたのか、という疑問がわく。
 しかし、こういう判断を評価する時に、果たして裁判所の「感覚」だけに目を向けていていいのかな、という気がする。こういう判決が出されるまでには、検察・弁護 側双方の立証活動があった。裁判官は、私たちが接している報道ではなく、検察と弁護側の立証によってのみ判断をする。裁判官が出した結果についてはいろいろ論評が なされるし、弁護人の態度や発言がクローズアップされることも結構あるけれど、検察官の立証について、あれこれ言われることはあまりない。
 私は、裁判官批判以前に、検察官の立証活動がどうだったのかを、メディアにはもっと検証してもらいたい。
 判決は、刑事責任を判断するうえでの裁判所の原則的な立場を明示している。
〈事実の認定に当たっては、事件当時に公表されるなどして客観的な存在となっていた資料を重視すべきであると考えられる。これに対し、当時を回顧して事後的に なされた論述等については、合理化などの心理作用から潤色している点がないかどうかを慎重に吟味する必要がある〉
〈生じた結果が悲惨で重大であることや、被告に特徴的な言動があることなどから、処罰の要請を考慮するのあまり、この(犯罪が成立する)外延を便宜的に動かす ようなことがあってはならない〉
 これは、裁判官たちが刑事司法の原則に、極めて忠実に判断を下すという宣言であり、このこと自体はむしろ極めて正しい態度、と言える。
 安部被告に対しては、自分の正当性ばかりを声高に主張し、自分の医療行為のために亡くなっていった命に対して、悔悟の言葉どころか、痛みを感じてさえいない 厚顔無恥な態度に、多くの人々が怒りを感じただろう。
 有罪に決まっている――安部被告が起訴された時、市井の人々のほとんどが、そう確信したに違いない。
 そういう世論をバックにして、検察側は立証を行った。
 検察側に、「これだけの人が有罪を確信している事件に、よもや裁判所が無罪判決を書くことはあるまい」という意識はなかっただろうか。世論やマスコミの後押し のために、どこか安心してしまい、緊張感に欠くところはなかっただろうか。それが、立証の甘さにつながるところはなかっただろうか。
 検察側にとって起訴は、「終わり」ではなく、始まりである。
 世論は「安部=有罪で終わり」と考えていても、裁判官は白紙の状態で臨むのが原則なのである。
 今回の裁判官たちは、安部氏についてのマスコミや世論の声を意識的に耳に入れないよう努めたようだし、それは「市民感覚」からずれたとして非難されるより、 刑事裁判の原則に極めて忠実な態度と言うべきだろう。
 私は、安部被告の裁判を傍聴してはいない。だから、断定的ことは何も言うつもりはない。裁判官たちをかばい立てするつもりもない。
 ただ、今回の裁判長を務めた永井敏雄裁判長は、オウム裁判の時に、その訴訟指揮を見ていて、非常に冷静で、バランスのとれた人だという印象が、私には強い。 被告・弁護側と検察側の対立が感情的になった場合でも、裁判長だけは穏やかで、かつ毅然とした采配をしていた。オウム事件を巡ってたくさんの裁判長を見てきた が、その中でも永井裁判長は非常に優れた訴訟指揮をしていた。
 そのうえで、例えば坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の1人端本悟に対しては死刑判決を下しており、決して被告人に甘い、というわけではなかった。
 そういう裁判官が、白紙で臨んだこの裁判で、検察側は有罪の心証を持たせられなかったのである。
 刑事裁判において、検察官は有罪の立証をする責任を負う。検察側が、充分な有罪立証をできなかった時、いくら疑わしくても、裁判官が有罪判決を書くことは できない。これが刑事裁判の原則だ。
 なぜ今、私がこうして検察官の問題について言及するかというと、このところのオウム裁判での検察側の立証態度や力量に強い疑問を感じているからだ。
 麻原彰晃こと松本智津夫について、無罪判決が下されるとは、おそらく誰も思ってはいないだろう。彼の指示で凶悪犯罪に関与した元幹部たちは、続々と死刑判決を 言い渡されている。その理由の中で、麻原の責任についても言及されている。
 もう大丈夫――そんな安心感があるのか、今の麻原裁判における検察側には、真摯な緊張感が感じられない。自分たちが被害者に代わって、事件の真相と麻原の実像を 暴いてやる、という意気込みや、そういう仕事に見合う力量という点で、疑問や不安を感じたり、時には不信感さえ抱くことがある。(詳しくは、「オウムあれこれ」の 「麻原裁判にみる検察官のやる気と能力」を参照)
 日本の刑事裁判の有罪率は非常に高い。平成12年版犯罪白書によれば、平成10年に第1審での判決を受けた刑事被告人は6万8,078人。うち、無罪は61人と なっている。ひとたび起訴されれば、99.9%は有罪となる。
 そういう日本の中で、裁判所の検察側への信頼はあつい。しかし、そのために検察の中に、「懸命に、正当に立証を尽くさなければ無罪になってしまう」という緊張感 は、日頃の裁判の中で、あまり感じられない。起訴するまでが勝負で、裁判は残務処理という感じがする時さえある(麻原裁判も、今ではまさにそうなっている)。
 しかし、前述したように、裁判こそが判断を決める場なのであって、捜査から起訴に至るまでは、その準備なのである。
 薬害エイズ事件で、検察側は本当に緊張感を持って、効果的で説得力のある立証を尽くしたのだろうか。
 そこのところが、私はとても気になっている。

EGAWA SHOKO JOURNAL 社会のこといろいろ
http://www.egawashoko.com/menu4/contents/01032901.html




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