HOME(Living Room)
BAS

専門性の脱構築
専門家―当事者関係のオルタナティブに向けて


第4回 Body and Society 発表レジュメ
青木慎太朗(同志社大学大学院総合政策科学研究科前期博士課程)


1.医療専門職の社会的構築
 「医療は,今日のわれわれが知っているように,常に強力で,高い威信を持ち,成功をおさめ,経済的に恵まれた支配的な専門職であったというわけではない。医療専門職の 地位は,治療上の専門性によってだけでなく,政治的駆け引きによってもたらされている」(Peter Conrad,Joseph W. Schneider[1992]=進藤雄三・近藤正英・杉田聡訳 [2004] 16〜17ページ)。
 例えば、植民地時代のアメリカでは、医業で生計を立てる者は少なく、多くが「医療を片手間に行っており,生計は牧師,教師,農夫や他の職業で立てていた」。ところが、 「およそ1800ご年ごろ,『正規の』,もしくは教育を受けた医師は,州議会に対して一定の訓練と講義を受けた者たちだけに医業を制限するという法律を採択せしめた」 (Conrad and Schneider 前掲書 18ページ)事により、州免許制が導入されるが、この時点では、有効なものではなかった。むしろ重要なのは、1847年のアメリカ 医師会(AMA: American Medical Association)創設である。「アメリカ医師会こそが,医療を『専門職化』しょうとする正規の医師にとって決定的な意義を持っていた」 (Conrad and Schneider 前掲書 19ページ)。
 日本においては、明治維新の欧化政策のもと、明治元年(1868年)に西洋医学を国家として承認(西洋医術差許の御沙汰)、1874年には医制が発布され、医師国家免許 制度が制定された(美馬[1995])。そしてその一方で、それまでの中心であった漢方は医療の中心から退けられ、あるいは、「江戸時代に盲人の職業として独自の地位を 築いていた」鍼灸は、1911年に医療類似行為として免許制が導入されたが(池田[1995])、これは明治4年の当道座解体、それに端を発した「あんま専業運動」の結果で ある(杉野[1997])。
 ここで、非西洋医療が医療の中心から退けられたのは何故か、という疑問が現れる。技術的に劣っているからなのだろうか。この点、「漢方の質的な内容が当時の西洋 医学よりも劣っていたから伝統医学が滅亡したのではない。わが国における漢方の没落は、医事制度と社会思想とによって自滅したのである」(石原[1963] 129ページ) といった指摘がある。あるいは、「漢方は、中世封建社会の理念である儒学の精神によって支えられて、消極的な個人治療にとどまっていたから、新しい時代の要求には、 とうてい適さなかった」(石原[1963] 128ページ)とも。もっとも漢方自体も、かつて中国宋代の皇帝の勅命によって古典医書が整備されるなど、政治権力との結びつき があった。
 医療専門職は、技術的にというよりはむしろ政治的・社会的に権威づけられ、それが今に至っている。

2.医療化
 1 「医」の部分が他に広がっていくという方向、2 医師がやってきた仕事の方も別の人が行うようになる方向、とがあり、医療社会学等で言われる「医療化」は1で ある(立岩[2001])。
 医療化についてフリードソンは、「医療専門職が効果的に対処する能力をもつかどうかにかかわらず、病気らしきものを病気として判定する権限を、誰よりもまず医療 専門職がもつ」事だとし、ゾラは、「“病気”というラベルをより多くの人間に貼りつけ、それに伴って自らの利得を拡大していく」現象であるといった。
 コンラッドとシュネイダーは、逸脱の医療化について、「道徳的・犯罪的な逸脱定義から医療的定義への変化」(Conrad and Schneider[1990]=邦訳:進藤・近藤・杉田 [2004] 62ページ)であるとしている。これは、「逸脱や社会問題の管轄権を…獲得して逸脱認定」を行えるように、医療がなったということである。
 障害者が手帳を申請し、あるいは高齢者が要介護認定を受ける際、医師の役割が重要になっている。これも一種の医療化である。

3.専門性
 専門職の基準として、フレクスナーは以下の6つを挙げる。すなわち、
  1 学習されうる性質
  2 実践性
  3 自己組織化へ向かう傾向
  4 利他主義的であること
  5 責任を課された個人であること
  6 教育的手段をこうじることによって伝達可能な技術があること
である(三島[2001] 118ページ)。
 また、グリーンウッドは専門職の属性として、以下の5つを挙げた。
  1 体系的な理論
  2 専門職的権威
  3 社会的承認
  4 倫理綱領
  5 専門職的副次文化(サブカルチャー)

4.専門家支配
 「ここ何十年かの障害者の運動の重要な部分に専門家批判があった。私達は,医療の対象だったり,リハビリテーションの対象だったりするだけだった,これはおかしい, と彼らは言う。医療やリハビリテーション(における専門性・専門家)を,自らに必要である(自らが判断する)限りにおいて否定しないが,その位置関係を変えようとする …」(立岩[1999] 140ページ)。
 このような、言わば「専門家支配」の状態に医者−患者関係がなってしまったのは何故か。市野川は医者−医者関係にこそ、その答えの鍵があるという(市野川[1999])。 それは、医師会の誕生であり、次々と有効な治療法が確立されていき、知識の差が生じた点である。これにより、もともと対等ないし患者優勢だった医者−患者関係は 医者の優勢に逆転した。今日の「専門家支配」状態は、決して昔からあるものでも、こういった関係には必然的に生ずるといった類のものでもないということが言える だろう。
 専門家の地位を高めるため、資格が設定される事があるが、資格がある事は専門職の必要条件ではない。「資格が必要とされるのは,消費者による選択がうまく働かない 場合であり,資格の付与が必要な場合は限られている」(立岩[1999] 142ページ)。資格には排他性があり、例えば、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちに対する痰の 吸引等の行為は「医療行為」とされ、「介護」をする人(=介護を職業とし、介護福祉士という資格を持つ人でさえ)がこれを行ってはならないとされている。ALSの 人たちは痰の吸引の介助が必要であり、訪問介護だけでは自立生活ができなくなってしまう。しかし、「「医療的ケア」のできる医師や看護師を、自宅で24時間雇うこと など誰にも不可能である。その結果、家族が死にものぐるいで介助にあたらざるをえない」(渡辺[2003] 43ページ)。*なお、厚生労働省は平成15年5月に、「ALS患者 に限って文書による患者の同意のもと、医師・看護師による個別指導を受け実施報告・確認の義務づけにより容認する」との見解を示した(大平・野崎[2004] 62ページ)。 こうした都合の悪い事も起こってしまう。

5.専門家−当事者関係のオルタナティブ
 専門家−当事者関係はどうある(どう変わる)べきか?
(1)当事者主権
 患者ないし利用者の自己決定を尊重した関係。口当たりは良さそうだが、@自己決定は万能ではない、Aパーソン論との関係、B(ますます拡大しつつある)知識や 情報の差をどうするか、等の問題がある。
(2)市場原理・消費者主権
 市場原理を導入すれば日本の医療はよくなる、患者の自己決定が尊重される、といったような事が言われているが、どうもそうではないらしい(李[2004])。例えば、 病院による患者差別、価格競争、質の低下…
(3)保険の介在
 専門家支配の対策として考えられているが、(アメリカがそうであるように)保険によって医者も患者も支配されてしまう。専門家支配から解放されたとしても、 あまりよい結果にはならない。少なくとも、自分の希望を言えるのは金持ちに限定され、そうでない人たちの状況は、今より悲惨なものになる。この点は市場原理の 場合と変わらない。
(4)別の専門家を置く
 例えば、医師に対して看護師といった感じで、治療については知識をもっているが、支配的地位にある医師とは別の人を介在させる。患者に情報を提供して、医師の ように支配的にならないように接する。「第一線にいる看護者が,医師の所見を頭に入れた上で,どんな案をどう提示するかを考え,決定し,「うちのメカニック (技師=医師)の見立てではこういう故障(病気)のようです,私どもといたしてましては,こういった対応でいくのがよいのではないかと考えますが,いかが いたしますか。」と医療側の意向を伝える役目を果たす」(立岩[1999] 153-154ページ)というスタイルである。
(5)ピア・カウンセリング的方法
 専門家支配からは脱却できるかも知れないが、ピア・グループで専門家の知識や情報に対応できるか。できる部分はやった方が良いと思うが、できない部分は今のままに してよいのか。

 ……何がよいか、現段階では模索中である。しかし、少なくとも、現在の支配的な専門家−当事者関係としての専門家支配を追認するわけにもいかないし、何とか、 それよりよい方法を見つけたい。そして、それを実現するためには、どういう政策の変化が必要なのか、示す事が当面の目標である。

■文献
Barnes Collin,Mercer Geoffrey,Shakespeare Tom[1999],Exploring Dis-ability: A Sociological Introduction,Polity Press=杉野昭博・松波めぐみ・山下幸子 訳[2004]『ディスアビリティ・スタディーズ──イギリス障害学概論』明石書店
Peter Conrad,Joseph W. Schneider[1992],Deviance and medicalization:From Badness to Sickness: Expanded Edition,Temple University=進藤雄三・近藤 正英・杉田聡訳[2004] 『逸脱と医療化』 ミネルヴァ書房
池田光穂[1995] 「非西洋医療」黒田浩一郎『現代医療の社会学』 世界思想社
石原明[1963] 『漢方―中国医学の精華』 中公新書
市野川容孝[1999] 「医療倫理」進藤雄三・黒田浩一郎『医療社会学を学ぶ人のために』 世界思想社
大平滋子・野崎和義[2004] 『事例で考える介護職と医療行為』 NCコミュニケーションズ
杉野昭博[1997]  「『障害の文化』と『共生』の課題」青木保ほか編『岩波講座文化人類学第8巻 異文化の共存』 岩波書店
立岩真也[1999] 「資格職と専門性」進藤雄三・黒田浩一郎『医療社会学を学ぶ人のために』 世界思想社
――――[2003] 「ふつうのことをしていくために」『助産婦雑誌』vol.55no.1 医学書院
――――[1996] 「医療に介入する社会学・序説」井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14) 岩波書店
三島亜紀子[2001]  「医師とソーシャルワーカーの専門職化──A・フレクスナーの及ぼした影響を中心に」黒田浩一郎『医療社会学のフロンティア』 世界思想社
――――[1999]  「社会福祉の学問と専門職」 大阪市立大学大学院修士論文
美馬達哉[1995] 「病院」黒田浩一郎『現代医療の社会学』 世界思想社
李啓充[2004] 『市場原理が医療を亡ぼす』 医学書院
渡辺一史[2003] 『こんな夜更けにバナナかよ──筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』 北海道新聞社


*青木さんご本人に許可をいただいたので、青木さんのホームページにあるものを転載しています。


Body and Society  ◇掲示板

HOME(Living Room)