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地震とメディア
Earthquake and Media


ニュースにならない被災者の本音(その1)
2011年03月31日(木)19時46分

 「ありがとうございます」「お疲れ様です」――先週末から5日間、仙台を拠点に被災地を取材した際、幾度となく言われた言葉だ。タクシーに乗ったとき、 ホテルの受付で、県庁や市役所、そして避難所を訪れたとき。
 話を聞いた被災者のなかには、家族を失った人、大切な人がまだ見つからない人、家も職場もすべて失った人もいる。自分が彼らの立場だったらと考えると、 そんなときに東京からやって来たというその日初めて会う記者に、極めて個人的なことを話す気になど到底なれない。それなのに、 今回の取材で出会った方々は「取材なんてお断り!」と罵倒するどころか、こちらの目をまっすぐに見据えて1つ1つの質問に真摯に答えてくれた。
 彼らと話すうちに思い知ったのは、目の前にいる「被災者」が、3月11日のあの瞬間まではどこにでもある日常を送っていた、ごく普通の、 一般的な人たちだという極めて当たり前の事実だ。テレビや新聞で繰り返し被災者の声を聞いているうち、 いつの間にか彼らを「被災者」というカテゴリーに当てはめてしまい、そこから抜け落ちる日常的な素顔というか、 そういうものへの想像力が働きづらくなっていた――恥ずかしいことだが、少なくとも私の場合はそうだったのだと思う。
 被災地から帰ってきて繰り返し思い出すのは、避難所の方々と交わした活字になりづらい言葉だ。そうした会話からこそ見えてくる、 彼らのニーズというのがあるのではないか。そういう期待を込めて、ここに記しておこうと思う。
 避難所で遊ぶ子供は、一見すると「どこにでもいる無邪気な子供たち」だ。だが、彼らにとって被災体験と避難所生活が途方もなく「非日常」であることは、 少し話をするだけですぐに分かる。
 そのギャップを目の当たりにしたのが、津波被害に遭った仙台市沿岸部のある避難所で子供たちと言葉を交わしたときのこと。
 体育館の受付で避難者名簿を見せてくださいとお願いすると、町内会長が壁に張り出された手書きの名簿を指差し「赤丸は生存者、青丸は死亡者、丸ナシは行方不明」 と教えてくれた。家族ごとに記された名前はほとんどが赤丸で囲まれていたが、なかには青丸も。両親とも青丸で、子供と思われる名前だけが赤丸で囲まれた家族もある。 赤丸の先には、矢印で移動先と思われる地名が記されている。
 そんな生々しい名簿の前で、小学生の男女7人がポテトチップスを食べながらDSで遊んでいた。都内では節電のためにDSの充電を我慢していると聞いていたのに、 避難所ではDS遊び。その「日常的な」光景に妙にホッとしながら、一番年長と思われる女の子に声を掛けた。「地震のときの話を聞かせてくれるかな」と言うと、 周りのわんぱくキッズが「えー?なんでー?なんで聞きたいのー?」と次々に声を挙げ始めた。容赦のない質問返しにたじろぎながらも、 子供相手にごまかしは許されない。「どうか自分、間違ったこと言っていませんように」と心の中で祈りながら、彼らと話しはじめた。
「今起きていることはね、今は大きなニュースだけど、10年後、50年後には歴史に変わるの。みんなも、学校で歴史って習うでしょ?」 「あ、神戸の地震とかー?」と男の子。「そうそう。神戸は今ではすっかり立ち直ったけど、あの地震も、16年前はそのときに実際に起きてた出来事だった。 あのとき、新聞記者とかいろいろな人が地震を体験した人に話を聞いたりして、記録したから、今は歴史として残ってる。記録が残れば、 そこから学べることが必ずある。何が起きたのかを記録するためには、当事者じゃないと話せないことがたくさんあるんだよ」。そう言うと、 子供たちは妙に納得した様子で「じゃあオレ、歴史に名を残すの?」とはしゃぎながら体験談を語り始めた。
 子供は子供なりに、自分の身に何が起きているのかを理解しようとしているのだろう。子供たちの言葉は、時にとてもストレートだ。 「おれ、ばーちゃん死んだー!」と手を挙げる男の子(9)がいれば、「面白がって言うことじゃないでしょ」とたしなめる女の子(11)がいる。 その女の子は、家が津波に飲まれたときに飼っていた犬2匹が心配だったと話してくれた。「1匹は死んじゃった。でももう1匹は、 棚の上に乗っていて無事だったの」。避難所でいつもどんなことをしているのかと聞くと、「DSとか。津波の日に、内緒で学校に持っていって無事だった。 午後は、みんなカウンセリングルームに行く。子供はストレスがたまってるからって。私はそうでもないけど」。ある男の子(9)は、 夜中の3時くらいに避難所のおじさんが「俺は病気だから、人を殺しても罪はない!」と叫んでいるのを聞いて怖かったという。 「あの人、夜中に1人で会議やってるんだもん。うるさくて眠れないよ」
 被災した子供たちはみな、小さな心に大きな傷を負っている。今は目に見えないその傷が、後になって表面化するというのはよく聞く話だ。 阪神淡路大震災の後に被災地の小・中学生の心の状態を調査した菅原クリニック(京都市)の菅原圭悟院長によると、地震後、 数カ月や1年が経っても子供たちの心の傷はまったく癒えていなかったという。当時見られたのが、親たちの精神的なダメージに子供たちが巻き込まれるケースだ。 親が混乱すると、子供の心にも影響が出やすい。心の傷が重症化するのを防ぐためには早い時期のケアが必要だが、 子供を診察できる精神科医というのは全国的にも数が少なく、被災地では子供のケアが後手に回っている。
 無邪気に恐怖体験を語り、避難所生活の苦しみを何気なく話す子供たちを見ていて、菅原の言葉が頭をよぎった――「子供は言語的にうまく訴えることができないし、 日本は何より高齢者が優先というのが社会的ルール。だが、子供は校庭で元気に遊んでいるというのは思い込みだ。高齢者への体のケアは必要だけど、 心の問題に関しては幼い世代を優先させてあげたい」
 子供たちのそばを離れて体育館の中を歩いていると、ジャージ姿の女性が目に留まった。話し掛けると、「携帯充電してくっから、ちょっと待ってて」と言い、 すぐに戻ってきてくれた。彼女(38)はこの春に高3になる息子と、両親と暮らす母子家庭。家は津波に飲まれ、職場の工場も流された。
 この母親との話で印象的だったのは、とりあえずの物資が確保できた今、彼女が何より求めているのは今後についての確実な希望だということだ。
 今、一番心配なのは仕事がないこと。息子を大学に行かせるつもりだったが、「お金がないからね。今は、息子に大学の話はしづらいよね。 かわいそうな思いはさせたくないんだけど」。心待ちにしているのは、政府が授業料を全額免除してくれるとか、助成金を出してくれるというニュースだ。 「ちゃんと書いてよ、授業料の話! 1年後じゃダメだから。半年後までにって、書いてな」と言う。
 彼女は「被災者」である前に、1人の人間であり母親だ。たわいもない会話をするうちに、そうした当たり前の事実が浮かび上がってくる。 話題は井戸端会議のように次から次へと移り、その端々で彼女は声を上げて笑った。
 例えば、息子の話。「最近、彼女と別れたみたいなんだわ。携帯に貼ってあったシールがはがれてたから。でもちょうどよかった。 別れてなかったら今ごろ彼女のところに行ってたかもしんねーし」。そう笑い、別れ際にはこちらの心配までしてくれた。 「どこに泊まってんの? 大変だろ、メディアの人も」。仙台です、仙台中心部もコンビニは閉まっているし、ガスが止まっているのでお湯も出ないと言うと、 「じゃーこことおんなじだ」と言って眉間にしわを寄せる。「いえいえ、避難所生活とは比べものになりません」と言う私を遮って、 「気を付けるんだよ。泥棒も出てっし、いい人ばっかじゃねーから。ホント、気を付けて帰ってな」と真顔で念押ししてくれた。

――ニューズウィーク日本版編集部・小暮聡子

写真:田んぼが瓦礫まみれの仙台市若林区(3月28日)

http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2011/03/post-212.php



ニュースにならない被災者の本音(その2)
2011年04月06日(水)17時19分

 ある被災者が「ニュース」になるとき、そのニュースは彼らの日常的な素顔を置き去りにしたまま一人歩きすることが多い。ニュースというのは、 被災者の体験で一番ドラマチックな部分だけを取り上げて報じることがほとんどだからだ。
 宮城県名取市内の避難所で、「ニュース」になった被災者家族に出会った。避難所の近くには、津波をかぶって泥まみれになった小学校がある。 この小学校に通う児童の家は、小学校より海側の地区に多い。津波が来たとき、小学校の児童はほぼ全員が校舎の3階に避難して無事だったが、 仕事などで海側にいた親だけが死亡したり、行方不明になっているケースが複数ある。その日に訪れた避難所は、こうした家族が多いと教えられていた場所だった。
 体育館に足を踏み入れ、受付にいた保育園の園長だという女性に話しかけると、「この避難所には親を亡くした子供が多い」と言う。そして隠す風でもなく、 「この子たちの母親も見つかっていない」と隣に座っていた小学生の女の子2人を見やった。姉妹だというその2人も、 あっけらかんとした様子で私と園長先生のやりとりを見ている。お姉ちゃん風の女の子が、ハキハキと「親がいない子、この避難所には結構いると思いますよ」 と教えてくれた。
 この小3と小6の姉妹、そして中2の兄という3人の孫と一緒に避難所生活を送っているという祖母(67)に話を聞くと、 孫たちの母親である自分の娘(38)がまだ見つかっていないという。津波が来た日の3時14分、仕事中の娘から携帯電話に 「地震大丈夫? 子供達は大丈夫? 私は大丈夫ですから、早く避難してよ!」というメールが来た。祖母は、娘と孫3人と暮らしていた自宅が津波にのまれる直前に、 中2の孫と近くの中学校に避難。次の日にこの小学校で孫娘2人と再会したが、そこには娘の姿がなかった。祖母によると、 小6の姉は地震の日から数日間は泣いていたが、小3の妹は「ママのことは言わないで」と話しながらも「いつもよりはしゃいでいる」という。
「ママのこと言わないで」――私はこのフレーズと、小3の女の子の名前に聞き覚えがあった。取材日の朝、インターネットで大手新聞社が配信した記事を読んだのだ。 この記事は、「ママのこと言わないで」という見出しでネットのアクセスランキングに入っていた。
 もしやと思い祖母に「新聞社の取材を受けられましたか」と聞くと、「受けた」と取材記者の名刺を見せてくれた。だが、 ニュースとして報じられたことは知らないという。そこで携帯電話でネットに接続して前日に配信された記事を彼女に見せると、 彼女は「ありがとうございます」と慎ましく携帯を受け取り、無言でその小さな画面に、食い入るように見入り始めた。ゆっくりと時間をかけて読み終わると、 記事についての感想は一言も言わず、また「ありがとうございます」と言って携帯電話をこちらに手渡した。
 自分の孫がどんな風に報じられているのか知りたい――その思いは、都心であれ避難所であれ、同じだ。だがその願いを避難所で達成できる人は多くない。 避難所によっては大画面テレビが2つあるところもあれば、新聞が無料で配られるところもあるし、携帯電話を持っている人も意外にたくさんいて、 携帯電話の充電スポットも設置されている。とはいえ、こうした情報源の豊富さは避難所や個人によっても違うし、その限られた情報源をどれだけフル活用できるのかは、 普段の生活や年代によっても大きく変わってくる。
 地震当日、固定電話も携帯電話も通じず、自宅のパソコンが停電で使えない状況でも、 普段から携帯電話でネットに接続してホットメールやGメールのようなウェブメールでやりとりをしたり、ツイッターやフェースブック、 ミクシィなどSNSのアカウントを持っていた人のなかには、即座に特定の相手に無事を知らせることができた人も多いだろう。そうした人なら、 場所によっては避難所にいても携帯電話のネットを駆使して情報を集めたり、ワンセグを使ってテレビのニュースさえ見られるかもしれない。
 だが、そうしたツールに慣れていない特に高齢者世代には、自分たちの様子が全国で、また世界でどのように報じられているのかを知る術がないのが現実だ。 そんななか、ニュースが勝手に作り上げて行く「被災者像」が被災地から発せられる小さな生の声を押しつぶしてしまう危険性だけは、肝に銘じておく必要がある。 もちろんこれはどんな状況の報道にでも言える当たり前のことだが、「ニュース」になったことを知らずにいた被災者を前にして、自戒を込めてそう思った。
 この祖母は、別れ際に唯一の連絡手段である携帯電話の番号を教えてくれた。取材に応じてくれた礼を述べ、「掲載誌を送りたいのですが」と言い出してしまった私は、 次に続く言葉をあわてて飲み込む――「ご住所を教えていただけますか」。
 彼女が住んでいた場所に、もう家はない。こちらの戸惑いを察したのだろう。彼女はそれまでも見せていたやわらかい微笑みを浮かべながら、こう言った。 「この避難所に送っていただけますか。たぶんもうしばらくは、ここにいますから」

――ニューズウィーク日本版編集部・小暮聡子

追記:4月6日現在、このご家族は仙台市内の親族の家に身を寄せている。祖母によると、娘は今も見つかっていない。私が避難所に送った掲載誌も、いまだ手元に届かず。 多くの人の目に触れた新聞記事も、あの日小さな携帯画面で読んだきりだ。

http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2011/04/post-214.php



そのとき、記者は......逃げた<全文>The Media Fallout
冷静さを失い、事態を必要以上にあおった外国メディアの大罪
2011年04月05日(火)13時40分
横田 孝(本誌編集長/国際版東京特派員)、山田敏弘(本誌記者)

 大災害は人間の本性をあらわにし、その強さを試す。一瞬にして日常が非日常に取って代わられたとき、人はどう振る舞うか。泰然と構えて冷静さを保ち、 周囲に気配りを見せられるか──それとも、パニックに陥って取り乱し、自分のことだけを考えるのか。
 メディアも同じだ。戦争や災害で、報道機関としての度量が試される。戦場や被災地といった危険が伴う場所で、いかに冷静に行動し、 事態をあおらずに現場の生々しい情報を伝え、正確かつ思慮ある報道ができるかが問われる。
 これまで、日本には外国メディアに対するある種の尊敬の念があった。ジャーナリズムの理想とあがめ、その権威に頼ることさえあった。 新聞などが日本に関する論評を求める際、今でも頻繁に「米紙ワシントン・ポストによると......」といったくだりが登場する。
 東日本大震災で、その神話は崩れ去った。この未曾有の大災害において、残念ながら多くの欧米メディアは本来果たすべき使命を全うできなかった。 ニュースを報道する側がニュースにのみ込まれてしまい、冷静さを失ってしまったのだ。
 当初は地震と大津波による甚大な被害を報じていたが、福島第一原発事故が発生すると、外国メディアはこの事故を「チェルノブイリ級」と決めてかかった。 放射能が見えない恐怖であることに違いはない。だが、今回は平静さをなくしたケースが後を絶たなかった。

■われを失ったスター記者
 今回特徴的なのは「敵前逃亡」した記者の多さだ。在京特派員を含め、多くの記者が福島第一原発の事故による放射能漏れに恐れをなし、現場だけでなく、 東京からも逃げ出した。例えば、本誌記者と共に米軍に同行して支援の様子を取材していた世界で最も名を知られた大手経済紙の記者の場合。一行が仙台に到着した翌日、 宿泊場所の駐屯地から彼が姿を消すという出来事があった。
 在京特派員であるこの記者は平時、クールに振る舞う人物だった。米軍取材の初日、この記者はひたすらスマートフォンに向かって原稿を書き続けていた。
 翌日、日が暮れた頃から彼の様子がおかしくなった。福島第一原発の状況が悪化の一途をたどっていた頃だ。突然、荷物をまとめ始め、 慌てた様子で駐屯地を離れようとした。動転した様子で「一刻も早くここを去りたい、それだけだ!」と声を荒らげた彼は、 落ち着くよう説得を試みていた米軍の広報官を振り切り、足早に仙台の街へと消えていった。
 駐屯地でも兵士が測定器で放射線量を頻繁に測定していたが、問題となるような数値は報告されていなかった。
 好意的に捉えれば、彼は同行取材でそれ以上得るものがないと判断したのかもしれない。あるいはほかの記事を書くために、 早く次の現場に向かいたかっただけかもしれない。ただ明らかなのは、彼が異常なまでに取り乱していたことと、 一刻も早く東日本から離れたがっていたことだ(ただ、支局の一部が移された大阪に向かう航空機内で、現場と同等かそれ以上の放射能を浴びたはずなのだが)。

写真:恐怖の生中継 福島原発の2度目の爆発を知り、「逃げたほうがいいか?」と動揺するCNNのアンカー(仙台) YOUTUBE

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2011/04/post-2039.php


 彼だけではない。ほかにも、放射能に怯えて大阪や国外に逃げた在京特派員は多数いる。私的な事情もあるかもしれないが、 多くの日本メディアの記者が現場で取材を続けていることを考えると、職務放棄と言っていい。安全を確保しながら取材するのは鉄則だが、 あまりにも敏感になり過ぎて冷静さを失ってしまっていた。
 とりわけヒステリックだったのがアメリカのテレビ局だ。世界の大ニュースに緊迫感を持たせたりあおったりすることは日常茶飯事のことだが、 今回はさらにそれに拍車が掛かった。震災の甚大さから、アメリカの各局はスター記者らを投入。当初は現場取材を重視した報道を行っていたが、 次第にそれはお祭り騒ぎになった。
 米ケーブルテレビ局CNNのアンカー、アンダーソン・クーパーは仙台からの生中継中に、福島第一原発での2度目の水蒸気爆発を知った。 そしてこんなリポートを行った。
 アメリカのスタジオにいる原子力専門家とのやりとりを遮り、「ここから福島までの距離はどのくらいだ?」「風はどの方向に吹いているんだ?」と、 同行の取材班に慌てて聞く。福島原発から100キロ離れていることを知ると、「に、逃げたほうがいいか!?」と、早口でまくし立てた。 「現場」の緊迫感を出そうとしたのか、それとも心底不安を感じていたのかは定かではないが、確かなのは、落ち着いて状況を把握しようとせず、 結果的に視聴者の恐怖心をいたずらにあおってしまったことだ。

■無責任報道の実害とは
 外国向けの報道とはいえ、これらは日本にも跳ね返ってくる。ネット上でも、日米間の報道の温度差に少なからず不安を覚えた人は少なくなかった。 放射線への恐怖心をあおるようなクーパーのリポートのような外国の報道を見て、状況は日本で報じられている以上に深刻だと受け取る人もいた。 危機を必要以上にあおったことが、各国の在京大使館が自国民に対して国外退避命令を出す事態につながった側面もあるだろう。
 冷静さだけでなく、知性まで捨てた報道機関まである。福島原発事故で作業員が必死に事故の対応に追われているなか、 欧米メディアは原発事故の不安を執拗にあおると同時に、ステレオタイプな報道を垂れ流した。当初800人いた作業員が50人に減らされたとき、 欧米メディアは彼らを「フクシマ50」と持ち上げ、その勇気をたたえた。
 だが、偏見に満ちた呼称を付ける媒体もあった。英スカイニュースは、彼らを「原発ニンジャ(Nuclear Ninjas)」や「サムライ」と呼び、 ドイツの有力紙ウェルトに至っては、原発への放水作業に向かった自衛隊のヘリを「カミカゼ」と評した。
 一見、こうした報道は無害のように見えるかもしれないが、決してそうではない。「差別的なだけでなく、地震や津波の犠牲になった人や、 本来目を向けるべき被害状況といったことから焦点をそらしてしまう」と、ノースウェスタン大学ジャーナリズム大学院で教えるスティーブ・ガーネットは言う。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2011/04/post-2039.php?page=2


 実際、それが現実になっている。津波や原発事故の派手な部分だけがクローズアップされ、被災者の切実な状況は二の次だ。 今も行方が分からない家族を必死に捜している被災者や、高齢の避難民に十分な医療が行き渡っていないこと、復興に向けた様子などは、ほとんど報じられていない。
 もちろん、例外もある。かつて日本に関してステレオタイプな記事を掲載し続けた米ニューヨーク・タイムズ紙は記者を増員し、 今も被災地から良質な報道を続けている。また、一部外国人記者が日本から退避するなか、 パンク寸前の東京支局を応援しようと自ら志願して日本に駆け付けた記者もいる。
 しかし、「チェルノブイリ級」とあおられたことで、日本全体が風評被害を受けた事実に変わりはない。世界各国が放射能を恐れるあまり、 貨物船が東京や横浜に寄港することを避けたり、被害状況の現地調査を行う専門家が現地入りできないケースもあり、復興への妨げとなっている。まさに、 メディアによる「二次的災害」だ。
 東日本大震災という試練に、日本は耐えている。外国メディアは、お世辞にもそうとは言えない。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2011/04/post-2039.php?page=3



Newsweek斜め読み
「正しく恐れる」ことのむずかしさ
2011年04月05日(火)16時06分
池上彰(ジャーナリスト)

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、依然状況が深刻であるにもかかわらず、テレビでの報道時間が減少しつつあります。 NHKニュースの視聴率も事故直後より低くなっています。まあ、平常時の数字に戻ったということなのでしょう。視聴者の側にも疲れが見えます。
 こういう事故が起きると、人は、自分の考えを補強する情報ばかり欲しがる傾向になるのだなと思います。放射能や放射線が恐い人は、 今回の事故がいかに危険かという情報ばかりを集めて読みたくなるのでしょう。放射線が人体にどれだけ危険か、その情報を見て得心すると、 テレビで「直ちに健康に影響が出るレベルではない」と伝えられても安心できません。むしろ、「政府やマスコミは危険なデータを隠しているのではないか」 と疑心暗鬼に駆られてしまいます。不安の悪循環です。
 一方、楽観視している人は、私たちが自然界で日常から放射線を被曝していることなど安心情報を求めます。 成田〜ニューヨーク間の航空機に搭乗することでどれだけ被曝するか、今回初めて知った人も多いのではないでしょうか。
 今回の事故の報道内容を見ていくと、「本当に恐れなければならないこと」と、「それほど心配のいらないこと」が、一緒くたにされているきらいがあります。 その2つをしっかり分けて理解すること。この大切さを痛感します。「正しく恐れる」ことが必要なのです。
 その点、本誌日本版4月6日号の「日本を惑わす基準値パニック」は、私たちが何を恐れなくてはならないか、冷静な視点を提供してくれています。
 しかし、テレビに出る専門家は、むずかしい専門用語を乱発。聞き手のキャスターも理解できず、何を質問していいのかわからないまま。その結果、 一般視聴者が、不安に取り残されてしまいます。
 と思っていたら、不安に怯えるのは海外メディアの記者やキャスターも同じだったのですね。同じ号の「そのとき、記者は...逃げた」の記事は秀逸でした。 「世界で最も名を知られた大手経済紙の記者」が「敵前逃亡」したり、私が敬愛していたCNNキャスターのアンダーソン・クーパーが、 仙台からの中継中に取り乱したり。なんだ、海外の大手メディアの連中も、たいしたことないのね、と認識されられます。
 よく「日本のメディアはお粗末だが、その点、海外(アメリカ)のメディアはしっかりしている」という類の言説を聞きますが、それは、 実情を知らなかっただけなのかも知れません。
 日本のメディアの取材を受けてみて、メディアのお粗末さを知ったという経験をした人もいると思いますが、今回私たちは、 海外メディアの報道の対象となったことで、その実態を垣間見てしまったのではないでしょうか。
 遠くから見ると美しく整っているけれど、近くで見ると穴だらけ、というのは月だけではないのですね。

http://www.newsweekjapan.jp/column/ikegami/2011/04/post-307.php



今、大事なのは事実と向き合うことだ 吉岡忍×金平茂紀 (1)
創 4月25日(月)14時57分配信

月刊『創』2011年5・6月合併号より

吉岡 忍●48年生まれ。『墜落の夏』『M/世界の憂鬱な先端』など多くのノンフィクション作品を発表。日本ペンクラブ常務理事。 BPO放送倫理検証委員会委員長代行も務める。

金平茂紀●53年生まれ。77年TBS入社。94〜02年「NEWS23」担当デスク。04年ボーン上田賞受賞。05年報道局長。08年アメリカ総局長。 10年帰国して「報道特集」キャスターに。


◆被災現場で目にした驚くべき光景◆
【吉岡】僕は今回、東北道ではなくて、新潟・山形・仙台を経由して石巻に入り、その途中で町や田園が津波にのみ込まれた名取川付近の被害を見たのですが、 とても不思議な感じを受けました。僕は阪神大震災の時にも当日現地に入ったのですが、今回のような被害は見たことがない、全く違う光景でした。
 津波が襲ってこなかったところは、「ここは被災地か」と思うぐらい、破壊の痕跡がなかったんです。もちろん亀裂が入ったり、 水・電気・ガスがないといった被害はありますが、津波に襲われた部分とそうでない部分が、はっきりと分かれていました。
 現地はリアス式海岸で、起伏が大きい地域です。同じ町の中でも壊滅状態のところと、 いまにも営業できるんじゃないかと思えるような形で喫茶店の建物が残っているようなところが、すぐ近くにありました。
 神戸の町は瓦礫だらけでしたが、今回津波被害を受けた中には、流されて瓦礫もないような町もありました。これまでカトリーナ被害を受けたニューオリンズ、 スマトラ島、台湾など、多くの被災地を見てきましたが、どれとも違う異常な印象を受けました。
 これだけ広範囲が壊滅状態な、惨憺たる現状を見たときに、メディア自身が何をどう報道したら良いのかと、戸惑ったと思います。だから、 地震直後のメディア報道については、あまり批判する気はありません。災害報道の場数を踏んでいても関係なかった。地元メディアにしてみれば、 彼ら自身が被災者であったこともあります。
 今回は「想定外」という言葉が、いろいろなところで使われました。被災者にとってみれば今回の被害は完全に想定外だったと思います。 津波の「想定」が何だったかというと、1960年のチリ津波でした。当時の津波の高さは約5メートル。しかも、チリ津波を体験した人に聞いた話だと、 今回に比べるとずいぶんマイルドなものだったようです。何度も大波が来ては引いていったという形で、津波が全く引かなかった今回とは違いました。
 今回の場合、波はもちろん一つ一つは引くのですが、震源地が近かったので、次から次へとぐいぐい押し寄せて来て、その結果全く引いて行かないという状況でした。 波はリアス式海岸で狭められるので、太平洋岸に来た時点での波の高さと、内陸・湾に入ってきたときの波の高さは極端に変わります。 太平洋岸では10から15メートルと言われていますが、内陸に入ると20から30メートル近くまで上がりました。防潮堤をはじめ、港湾施設、波止場、漁業関係の施設など、 最大で5メートルの津波を想定していた対策施設は、一つも役に立ちませんでした。

【金平】僕の行った宮城県南三陸町は、明治三陸、昭和、チリ地震と3度の大津波を経験していて、防潮堤と防波堤、水門など、 津波対策のモデル都市になっていた場所でしたが、これらの設備は機能しませんでした。津波は揺れから1時間以内という早さでやってきて、 しかもその破壊力は圧倒的でした。人間が想定するということ自体の限界を感じました。地震・原発を含めて今後について言えば、人間の想定の限界に対して、 僕らはもっと謙虚になるべきだと思いました。
 大津波警報も何度も修正されましたが、第一報では、岩手3メートル、宮城6メートル、福島3メートルです。マグニチュードも最初は7・9と言われていましたが、 最終的には9・0まで、4回修正されました。どうしてこうなってしまったのか。

◆人間の作り上げた秩序が破壊された◆
【吉岡】ものすごい数の被災者がいることは間違いありませんが、内訳を見ていくと、私の想像より漁業関係者の被害は少なかったようです。 多くの漁師はすでに沖に出ていて、港に停泊していた船は案外少なかった。それに比べると漁業関係でない、いわゆる一般住民の被害が多かったと聞きました。

【金平】無傷なところと、壊滅的なところとの差が激しいというのは、僕も感じました。南三陸町ではそれまでの経験から、学校は全て高台に建設していました。 一方で役所は下にありました。漁業の町だから現場に近いところじゃないとまずいということだったのですが、消防署、病院、警察、町役場、 防災対策本部のビルも津波にやられてしまいました。避難を呼びかけるアナウンスをしていた女性も流されました。ビルの2階にある放送室は、 「想定」であれば大丈夫のはずでした。有名な話になりましたが、町長は防災対策本部ビルの屋上の鉄塔にすがりついてやっと助かりました。
「(船頭多くして)船、山に上る」というのは、ありえない結果をきたすという比喩ですが、取材に入って山から道を下りていくと、 山間部にある民家の屋根に漁船が乗っていました。表現は難しいんですが、超現実主義的というか「ありえない・とんでもないことがおきている」と戦慄しました。 下に降りるにしたがって、脈絡のないモノが塊になって堆積していました。 「津波は、洗濯機に色々なものを入れて撹拌するのと同じような状態になる」と言われていますが、その通りでしょう。
 僕は水が引いた後の痕跡しか見ていないのですが、ありとあらゆるものがぐちゃぐちゃに残されていました。鮮明に覚えている光景は、 タコの死骸のすぐ隣に女性向けの綺麗なスカーフやブラジャーがあって、漁網があって、ウキがあった。そういう序列で、泥まみれになって並んでいたんです。 人間が作りあげてきた秩序が壊されたと感じました。

【吉岡】どんな優秀な画家、例えばダリですら想像できない組み合わせですね。その横に車がひっくり返って屋根の上に登っていて、牡蛎が散乱し、 わかめもつながってはためいていた。見たことがない光景で、言葉になりませんでした。

【金平】表現のしようがないですね。

【吉岡】想定とは何なのでしょう。僕らは町をつくろう、企業をつくろう、産業を起こそうとするとき、ある種の想定をします。社会の連続性、想定のうえで、家族、 町、都市、国をつくってきたわけですよね。
 少し話が飛躍しますが、「絶対安全・安心だ」といって原子力を推進してきた東京電力や官僚たちは「想定外」と言ってはいけないと思っています。 その文脈で使って良い言葉ではありません。
 ですが、町づくりをしてきた人たち、商店街、漁師、水産加工をしてきた人たちは「想定外」という言葉を使って良いと思います。

【金平】防災課の人たちなんかは、最後まで一生懸命やっていて、南三陸町の被災者の中にも「行政は全く悪くない。 僕らのためにやってくれている」という人がいました。

【吉岡】今回、地域行政・地方行政について「想定外はけしからん」とは言えないと思います。でも、だからといってこのままで良いわけではない。
 問われているのは別のところです。津波が来たら逃げるしかない。地震が来たら避難するしかないということをきちんと想定できていたかどうかです。 町が壊れるのは想定外かもしれないが、津波が来たときに逃げるというのを正しい形で想定していたかということです。「命を守る」「そのために逃げる」。 このことは言い続けていかなければならないと思います。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110425-00000302-tsukuru-soci



今、大事なのは事実と向き合うことだ 吉岡忍×金平茂紀 (2)
創 4月25日(月)14時58分配信

◆あまりに巨大な出来事にメディアは対応不能に◆
【金平】メディアの話に戻すと、あまりにもすごい現象が一気に起きて、メディアが即時対応できたかという問題がこれから徐々に検証されていくと思います。
 僕はこれだけの大きな出来事が一度に起きるという現象をみたことがありませんでした。これに匹敵するのは戦争ぐらいでしょう。

【吉岡】戦争……。

【金平】もちろん戦争は人為的で、災害は自然で、全く性格が違います。でも、広島や長崎の原爆、空襲というような重大なことがあちこちで同時並行的に起きたときに、 どういう優先順位で何から報じるべきなのか。判断が非常に難しいという意味での共通点です。
 先ほどから話しているとおり、最優先に報じるべきなのは、「命を守る」ことだと思います。とにかく高台に逃げろ、机の下に潜れ、電気やガスを止めろ、 そういった話ですよね。
 今後いろんな批判が出るかもしれないですが、被災地取材については、阪神大震災の教訓が生きていたと思います。僕らは取材に入って、 あまりの出来事の大きさに打ちのめされましたが、同時に謙虚な気持ちが自分たちの中にも生まれていたと思います。そういう気持ちがあれば、 横柄な取材にはなりません。
 今回は、被災者が寝ているところにどかどか入り込んで、ライトを付けたり、被災者一人をメディアが取り囲んだりすることはなかったと思います。 それは阪神の教訓が生きていたんだと思います。
 それから、これだけの事態が同時多発的に起きるとメディアにいる個人一人一人の能力を超えてしまいます。 地震が起きて3日目ぐらいに一橋大学の宮地尚子さんが「気をつけてください」と電話をかけてきてくれました。 宮地さんは「メディアの人たちは『情報被曝』の状態です。もしメディアがパニックに陥って、冷静な価値判断ができなくなると、 情報を受け取った側はもっと酷いパニックになる。だから落ち着いて、冷静に、慌てないで。必要ならカウンセリングもする」と言ってきてくれて、 これはありがたいと思いました。
「情報被曝」というのは、あまりにもたくさんの情報が序列関係なく飛び込んできて、 記者や編集者個人の処理能力を超えてしまうような情報量に晒されるということです。今回はきっとそれに近いことが起きたんだろうと思っています。 ぶっ続けで何時間も生放送をしていると、入ってくるものを処理していくのが精一杯で、一つ一つの情報を価値判断していく余裕がなくなってしまう。 それができるまでには、しばらくかかりました。

【吉岡】僕は今回、名取川周辺を見て、石巻を通って女川、気仙沼と宮城中心に動いて壊滅的状況を見てしまいました。
 今おっしゃった情報被曝と共通すると思うのですが、生き残った被災者の人たちから、肉親の安否がわからない、行方不明だなど、 さまざまな話を聞いて考えますよね。それを次の町、次の町と続けていくと、Aという町、Bという町、Cという町で見る光景が、全部同じ光景にみえて、 デジャブに陥ったんです。これは一種のプロテクション(防御反応)で、取材者は頭の中でそういう風に処理しないとパンクしてしまうということなのかもしれません。

◆メディアの人間が伝えるべき言葉を失った◆
【金平】津波被害の圧倒的な力。つまり、一様に見ないと処理できないような大きな力があったんだと思います。地震が起きたとき、最初に僕らテレビが報道できたのは、 せいぜい同じ系列局の固定カメラの揺れ、お天気カメラの揺れを放送することでした。その揺れを見るだけでも僕らは、とんでも無いことが起きたと思ったんですが、 実は、より致命的だったのは津波の被害でした。
 時間が経つにつれて、津波被害の壊滅的な実態がだんだん伝わってきましたが、初期の段階で自分たちには情報を伝えるリポーターがいませんでしたし、 伝える手段がありませんでした。その後、ヘリや飛行機から撮った映像が伝えられると、やっと沿岸部の地形が変わるほどの被害がわかってきました。 僕たち自身も当初は実態を把握できていなかったんです。

【吉岡】我々は地震国に住んでいます。先進国の中でこれだけ地震に揺さぶられている国はたぶん日本だけです。ここしばらくでも阪神大震災が起き、 中越震災が起き、地震への備えはどうしようというような話は、子どもの時から教えられて育つわけです。ところが一方、津波はいつも付随的な扱いでした。 今まで地震は主、津波は従だった。

【金平】原発設計者の考えも一緒ですよね。

【吉岡】そうです。93年の北海道南西沖地震の津波で奥尻島が被害を受けたという話は聞いていましたが、 あれは小さな島の話だとして頭の中に入っていなかったと思うんです。その付けが回ってきた。いわば虚をつかれたわけです。そうして我々はいま、 巨大な現実を目の当たりにしています。
 メディアに関して言うと、僕は取材のために被災地へ行ったので、情報源はラジオしかありませんでした。そうして被災地で夜を明かすと、 いろんな人の被災者応援メッセージを四六時中聞くことになります。
 僕は被災をしなかった善意のリスナーたちが、何を語っているのかを、ずーっと聞いていました。「私は電気をなるべくこまめに消して、 買い占めもしないように心がけて、被災者の人たちを応援しています」とか、「今日は月が明るい夜です。みんな同じ月を見て被災者のことを祈っています」。 そういった情緒的なメッセージを何百回も聞きました。被災者はそれをどう受け取るのか。見ていると、少なからぬ被災者がラジオのスイッチを切ったり、 違う番組に変更していました。
 その後、リクエスト曲が入るようになると「がんばろう」みたいな曲ばかりで、僕は「メディアってこの程度かよ」と思ったんです。メッセージがものすごく情緒的で、 流れる曲が幼稚でした。そういうメッセージが被災者の心に届くと思っているんですよ。でも実際には、スイッチを切る被災者を何人も見かけました。
 なぜそうなるのでしょう。初めて見る悲惨な光景に、多くの人たちが動転しているのは事実だと思います。ですが、これは忖度していうのですが、 ラジオネームを使ってファクスやメールを送っている人たちは、同情している自分に酔っているのではないかと思いました。僕は今、 すごく厳しいことを言っていると思いますが、この酔い方って何なのか。「大変だ、気の毒だ、かわいそうだ」。そういうメッセージを送るリスナーたちは、 何を現実として捉えているのか。
 言葉は、自分の経験、体験とか、現実に裏付けされなかったら、ものすごく浮ついたものになりますよね。現実を見たメディアの人間が戸惑って、 声を失っていることと、そうしたメディアが送った映像を見たリスナーが情緒的なメッセージを送ることの間には、大きな断絶があると思います。気の毒な人、 被災した人に届ける言葉って何なのか。我々は普段いろいろな言葉を使って生きていますが、日本語はなんて貧弱なんだろう、弱々しく、 幼稚なんだろうと愕然としました。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110425-00000303-tsukuru-soci



今、大事なのは事実と向き合うことだ 吉岡忍×金平茂紀 (3)
創 4月25日(月)15時6分配信

◆この機に乗じて政治的発言をする人たちも◆
【金平】僕は善意を疑おうとは思いません。でも、客観的に見ると自分は安全なところにいる。美談とか、表面的に美しい言葉に逃げ込みたい、 被災者と自分を無意識のうちに分離したいということがあるのかもしれません。
 阪神大震災の時も、南三陸町でも、黙々と身体を動かしていた人を見ました。黙々と動いている彼らの重みが、 逆に言葉の軽さを浮き上がらせてしまうのではないでしょうか。

【吉岡】体を動かして、一日中泥から色々なものを引き抜くなど働いていた人が帰ってきて、お風呂にも入れない状況でラジオを付けた時に、 そこから流れてくる言葉に対して不愉快になるんです。言葉の軽さを一瞬で見抜くんですよ。

【金平】例えばアメリカのメディアはこういう大惨事が起きると、まずヒーローをつくろうとします。命を惜しまない決死隊とか、そういった美談によりかかる。 それから、明るいニュースをもっと出そうとします。あまりにも酷い現実を目の当たりにして、それと向かい合う勇気、タフネスがないと、 そういうところへ行ってしまうのではないでしょうか。
 この機に乗じて、政治的な発言をする人もいます。例えば、そらみろ、菅じゃダメだとか、アメリカ軍の役割を誇大に表現してみたりとか。 僕はある意味でいうと、この大震災が、そういう人たちの化けの皮をはがしたと思います。人間の生き様、有りよう、偽物と本物の弁別が付いてしまったと思います。 この期に及んで「だから普天間基地は重要なのだ」というような人ですね。
 浅ましい振る舞いをする人がいるんですよ。「天罰」とか「我欲」とかいう言葉を使ったりですね。

【吉岡】僕は阪神大震災の時に現地にいて、同じくラジオを聴いていた。東京のスタジオにいて「アメリカにあるFEMA(連邦危機管理庁)みたいなものを作るべきだ」 とさかんに言っていた評論家たちがいた。でも目の前の現実を見ていれば、強力な権限を持った組織が突入すれば、それこそヒーローたちが頑張れば、 瓦礫をあっという間に片づけることができるとか、そんな馬鹿なことがあるものか、と実感できた。
 だから僕は被災地にいて頭に来て、そういう連中に「ここへ来てみろよ!」と言いたかった。「この現実を見てみろ」と。 あの時に中央集権の国家を作るべきだと言った連中は金平さんが言ったような、この機に乗じて政治的発言をしようとした人間たちだった。 そういう人たちは沢山います。

◆被災地で人々が自律的になしとげた「自治」◆
【金平】そういう人たちの化けの皮がはがれたと思うんです。それとは対照的に、もしかしたら僕自身が美談を探しているのかもしれないですが、 南三陸町にいたときに避難所に行くと、そこには行政が存在しないわけです。津波で流されてしまいましたからね。体育館や学校に1000人くらいが集まるのですが、 そこでささやかな希望を見いだしました。
 そういう悲惨な現実の中から自分たちでやるしかないと思う人が出てくるんですね。まず食糧を確保しなければダメだとなると、南三陸町は水産加工の町だから、 水産加工業社の社長に、冷凍の効かなくなった倉庫から魚を出してもらい、自分たちでさばき、炊き出し部隊を組織するわけです。
 残酷な話ですが、高台に住んでいたのは網元などの比較的裕福な人たちで、海の近くには漁師さんとかさまざまな職業の人たちが住んでいた。 でも高台に住んでいる人たちだって低地に住む親戚などがいたので、いろいろな感情が出てきた。 彼らは家を開放して被災者を入れた上に朝から晩まで千何百人分のおにぎりやあら汁の炊き出しをやったんです。
 しかも最初に配るのは寝たきりの老人や病人、自分で食べられない人たちから、というようなルールを作っているんです。まさに自治ですよ。 地震発生から4日目でそうなっていたんです。見ていて涙が出てきました。さっき言った評論家のような上から目線で物を語る発想とは全く逆のもので、 それが被災地で実際の力になっているんですよね。

【吉岡】被災者、あるいは近くで見ている人たちにこそ力があるんですよ。生き延びようという最も強い力です。これまでの日本の中で考えられてきたのは 「被災者は弱者だ」ということでした。でもそれは違っていて、被災者は現場においては強者なんです。だから彼らを信頼し、励まし、そのうえで何が出来るのか。 それを考えないと被災者支援なんてできないと思います。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110425-00000304-tsukuru-soci



今、大事なのは事実と向き合うことだ 吉岡忍×金平茂紀 (4)
創 4月25日(月)15時8分配信

◆ボランティアの回路が原発事故で築けない◆
【吉岡】神戸の時は3日目にボランティアたちが来ました。僕はその時に「ニュースステーション」という番組のゲストレポーターをやっていて、 そこで呼びかけたこともあるんですが、本当に大勢が一気に来たんです。放送で被災者同士が助け合っているということを伝えたら、翌日以降、 被災地の近隣から集まり始めた。今回は広い範囲で、どこでも人を必要としているんですが、入口の福島での原発事故で人の足が止まるんです。 だから若いボランティアたちが非常に少ない。
 阪神大震災の時に感じた大切なことは、被災者がいて、メディアが被災の状況を伝え、ボランティアがもう一つのコミュニケーションの回路になったということ。 被災者でもマスコミでもない中間層が出来るんです。この人たちは被災者ともマスコミとも違うルートを持ち、 被災の現実を伝えるもう一つの回路になっていったんです。
 ところが今回はそういう人たちが少ないから、東京以西の人たちは、被災の現実はテレビでしか知らない。 ボランティアが入ることで助ける・助けられるという関係ができるだけじゃなく、情報回路が増える、広がってくるということでもすごく大事だと思っているんです。 ところが今回はそれが欠けているんです。

【金平】なるほど。それが原発事故の特殊性かもしれないですね。自然災害や目に見える事故・災害とは全く違い、心的圧迫感が大きい。 ボランティアの自発的な心を砕くくらいのインパクトがある。現実的にそれだけの恐怖を抱かせる事故が起きているんです。
 現在、専門家が――専門家や、敢えて言えば「御用学者」という言葉が今回ほど問題になっていることはないんですが――原発について論じたり、 報じたりする場合、これまで少なくない数の人達が原発は危険だと告発してきたが、メインストリームのメディアの中では無視されてきた、 あるいは報じるとひどい目に合うみたいな意識もありました。
 僕は11年前にJCOの事故があったときに、まだ存命だった原子力資料情報室の高木仁三郎さんに、最後のテレビ出演だったんですが、 筑紫哲也さんの「ニュース23」に出てもらい、「この警告をどう受け止めるべきか」ということをスタジオで発言してもらった。 そのときの警告がそのまま今の状況に通じるんです。
 民主・自主・公開という原子力三原則がありますが、今回の事故について、とりわけ情報開示の仕方や、 どこがこの事故に対処しているのかということが最初は見えなかった。また、僕らの後輩にあたる次の世代の記者に対して、どういう育て方をしてきたかなどについて、 自分の中で忸怩たるものがあります。たとえば高木仁三郎という名前を出すと「ああ反原発の人ね」というようなある種のレッテルが貼られてしまっているんです。 つまりいつの間にか、メディア内での原発批判派などに対する駆逐というか、追放作業が、長い年月において完了してしまっているんです。

◆原子力政策を根本的に考え直すべきとき◆
【金平】「報道特集」で、前福島県知事の佐藤栄佐久さんにお話をうかがったのですが、「この人はここまで闘ったのか」と感じました。 彼は電力会社あるいは経済産業省、エネルギー庁と闘った。つまり県や住民が原発に関する意思決定プロセスに関わる余地が全くないんです。 佐藤栄佐久さんの言葉を借りれば、独裁国家のような意思決定のプロセスだと。ボーンと話が来て、町に交付金が下りて、 でも安全性などに関して自分たちが一切関与できない施設というものは何なのかと思います。
 僕はこんな状況にあるのは日本だけではないかと思うんです。もしかしたら中国もそうかもしれませんが、「国策」として原子力推進が据えられた国です。 少なくともアメリカはスリーマイル島の事故(1979年)以降、住民の意思を無視できなくなりました。ヨーロッパではもちろんあり得ません。 今後のエネルギー政策の方向付けに関わってくるのかもしれませんが、日本において原子力はとても不幸な育ち方をしてきたんですよ。
 人類の歴史を紐解けば、核に関する出来事として、広島、長崎、第五福竜丸、スリーマイル島、チェルノブイリ、今回の福島が挙げられます。 6つの内4つまで何故日本が絡むのかと。なおかつ、日本の原子力導入の歴史はとても不幸なもので、 広島・長崎に原爆を落とされて核の恐ろしさというものに関しては国民の間で一定感情があったにも関わらず、ブルドーザーで整地するような形で、 アイゼンハワーの「Atom for peace」という演説以降、アメリカから原子力を持ってきたわけですよ。その勢力、 正力・中曽根グループを中心とした核推進の旗振り役をした人たちのなれの果てがこういうことになっているわけです。
 僕らはそろそろこの国における原子力エネルギーの在り方を根本的に考え直さないといけない局面に来ているのではないでしょうか。

【吉岡】過去・現在がどうであれ、未来をどうするのかを含め、原子力政策そのものを一度ご破算にして考え直すことが大事だと思うんです。 僕は東京で地震に揺さぶられ、その後、テレビや新聞で原発が大変な事態になっていることを知ったわけです。記者会見で安全保安院が出てきて、 枝野官房長官が出てきて、やがて東電が出てきてという一連のプロセスを見ていました。 そこでこの人たちは自分が何を説明しようとしているのかわかっていないんじゃないかと思うくらい、それらは言語も論旨も不明瞭でした。
 何かを隠す意図でわざと曖昧にしていたとかいう以前に、現在原子炉がどうなっているのか、津波によってどこが壊れたのか、高温になれば何が起きるのか、 最悪の場合はどうなり、今はどのレベルにあるのか、そういう概念図を何も説明しない。いや説明できないんですよ。 誰に対して何の目的で会見しているのかわかってない。 ひょっとすると自分の仕事の意味もわかってないんじゃないか。そう思いました。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110425-00000305-tsukuru-soci



今、大事なのは事実と向き合うことだ 吉岡忍×金平茂紀 (5)
創 4月25日(月)15時9分配信

◆チェック機関の保安院が経産省の中にある不思議◆
【金平】実は原子力に関する情報は、法律でオフサイトセンターというものが出来ていて、情報が一元化されていて、 ある程度の評価とか見解のすり合わせが終わった後に発表されることになっているんですが、今回は初めから四元化されているんです。官邸の枝野、保安院、 東電それぞれの記者会見に加え福島県の発表という4つのルートがあって、それぞれニュアンスが違っていたりして、どれを信用していいのかわからない。 情報一元化は矛盾も出たりするので必ずしも良いとは限らないが、オフサイトセンターが機能してないということなんですね。
 もっと言えば、保安院とは何なのか。これも佐藤栄佐久さんに聞いたのですが、保安院とは経産省の中にある組織なんですね。そのこと自体がおかしい、 推進している側に保安院があったら意味がないと言っていた。安全性をチェックして問題点を指摘するのが身内なんです。なおかつ、原発情報には隠ぺいや、 ねつ造まであったので、もんじゅ事故の後、2000年に内部告発制度が出来たらしいんです。
 その第一号として、保安院に内部告発があったそうなんですが、保安院はすぐに東電に通報したというのです。そのままずっと放っておかれて、 どういう処理がなされたのか分からないまま年月が過ぎた後、2002年8月27日、佐藤栄佐久氏のところに、いきなり保安院から十数枚のファックスが入り、 読んだところ「2年くらい前にこういう告発があって、こう調査したところこうだったので、こう終わりました」と。
 佐藤氏はそれで激怒したんですよ。内部告発とは、告発者が自分の属している場所を良くしようと命を懸けてするものですよ。それ以降、 内部告発は福島県に直接来るようになったんです。19通あって見せてもらいましたが、深刻ですよ。爆発事故も公表しないし、クラック(亀裂) が容器だけじゃなくタービンにもあったとか、それぞれすごく深刻な内部告発なのに、保安院の内部告発制度は機能していないんです。
 原子力開発の自主・民主・公開という三原則で言うなら、彼らは原子力村の中の原子力一族みたいなものだから、 自分たちの「不都合な真実」を表に出さないような形になってしまっているんですね。 それが続いてしまうとメディアや学者・専門家などのアカデミズムも含めて原子力の問題は、表に出さないことが当然になってしまうんです。

【吉岡】今度のテレビコメンテーターとして原子力の研究家や学者が出てきますが、どうやって火消しするかというコメントが多いけど、原子力の研究者は、 ごく一部の人を除いて、推進側といい関係を持ってないと研究できないの?

【金平】原子力工学とか原子炉設計に関わるような人の間に、ある種の学閥みたいなものがあって、それは東工大、東大、京大など、 その中でいわゆるメインストリームにいる人たちは、明らかに原子力推進の側に立っています。例えば京大の小出裕章さんみたいに、 推進という国策に非をとなえる人は、すぐに「逆賊」扱いされてしまうんです。それは本来のアカデミズムの在り方からするとおかしいんです。 


◆事実がないがしろにされている◆
【吉岡】それは、事実がないがしろにされているということですよね。何よりも大事なのは事実で、その裏付けに基づいて、 「原発は今、こうなってます」という話をすればいいんです。原発の事故に関する記者会見でも、レベル4が5になり、6になるかもしれないという中で、 そのレベル6や7という事態がどういうものなのかを誰も説明しない。ただ「レベル4です」と言っているだけ。それでは事実を語っていることにはならない。

【金平】事実や現実に向き合うことが、僕らの仕事の基本です。だから視聴者・読者も含めて覚悟が試されているんですね。今大事なのは、 起きている事実・現実を見据えることです。
 今回の地震・津波・原発事故が日本人に与えた一番大きなインパクトは、心理的なものだと思うんです。日本自体がこういうものに対して評価できず、 どう対処していいかわからずに、生き方が変わってしまうのではないかと、元ニューズウィーク東京支局長のビル・エモットがそのような趣旨のことを書いていました。 今回の震災については、心理的なものや歴史観みたいなものをめぐって、日本人のある種の転換点になると思うんです。

【吉岡】第二次世界大戦で負けたことが非常に大きなショックとしてあって、それから「復興を頑張るぞ」とある種の物質主義で戦後はずっときたわけです。 高度経済成長期からバブルまで走って来て、その後、この20年くらいは我々自身、どうしていいかよくわからなかった。ところが今回、震災が起こって、 人間の限界がよく見えたんですね。
 たとえば20メートルに達するような津波を防ぐ堤防を築くのは、天文学的な金額になるから無理です。だから自然の驚異は今後も常に在り続けて、 地震予知をしようが何をしようが、もう勝てないと。そうなるともう一度改めて町を作ろうというときに、それを踏まえる必要があります。そうするとたぶん、 全体的にコンパクトになっていくはずなんですよ。人口もピークを過ぎて減っていくし、街もダウンサイジングしてコンパクトになっていく。 それは東北三県どの港町でも絶対必要なことです。
 町がコンパクトになると、生活の全体が小さくなるということが、どう心理的影響を与えるかは分かりにくいのですが、ガツガツしなくなるのではないか。 金儲けや物質的な生活というものを求めることが少なくなると思います。それは経済学者からすれば「物が売れなくていけない」となるかもしれないけれど、 今回の震災が私たちの精神とか価値観とかにどう影響を与えるか。先が見えないので即断しない方がいいとは思いますが、被災者は強いですよ。生き残った人は強い。

【金平】強いですよね。本来僕らが備えていた自立とか、共存力とかを持っていますよ。一人で生きられないと知っていますからね。 被災地では人はつながらないと生きていけないわけですから。
 ある意味、自然にビンタを張られたというか、人のつながりの濃さを見せつけられました。価値観や歴史観、文明の在り方、生き方、 暮らし方などはネガティブに捉えると無常観、虚無感に支配される恐れもある。でも一方で、 自立していくような本当の意味での草の根みたいなものに立ち戻るように思います。いかに専門家や学者、政治家など「権威」が言っていたことが虚しくて、 軽い言葉とパフォーマンスで生きているか、ということですよね。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110425-00000306-tsukuru-soci



今、大事なのは事実と向き合うことだ 吉岡忍×金平茂紀 (6)
創 4月25日(月)15時9分配信

◆3・11以前と以降である種の価値観の断絶が◆
【金平】それは僕らメディアにも跳ね返ってきて、今時点の話で言うと、ACが「今、自分にできること」とか「がん検診は大切」とか 「心は見えないけど心遣いは見える」みたいな、昔の日本船舶振興会がやっていたような、ある種のモラルや道徳観を流すことしかできないわけですよね。 阪神大震災の時もそうだったんですが、一般のCMが消えたということは、何を意味しているのかということをずっと考えていたんです。つまり、我々はこれまで、 今回のような空気の中で出せないものを作っていたということなんです。いかに僕らが物質生活の中で生きていたか、ということです。 「これはうまい」とか「これは儲かる」とか「これはお得」ということを細切れにして情報として発信し続けていたわけですよ。でも今、 不謹慎とか言われかねないため、それをおびえて出せないんですよ。

【吉岡】今はバラエティもどきの番組も放送していますが、避難所で見たりすると、「何をバカなことをやってるいんだろう」と、 すごく古いものを見ている気がするんですよね。

【金平】まさにそのことで、3・11以前と以降で、ある種の価値観の切断点になっていて、「何て馬鹿なことを僕らはやってたんだろう」 「何てものを放送で流していたんだろう」と感じるわけです。しかし僕が恐れているのは、「Business as usual」、 何ということない日常に戻ることが無前提にいいことだと、まるで宗教のように信じて元通りにすることが復興だとか復帰だという考え方は、 今回起きたことに対する最大の侮辱だと思います。

【吉岡】元通りというと日常生活を大事にすることまで含まれるから、一概には否定できないですが、浮ついた、ふわふわした、 そんな中で生きてきたということですよね。

【金平】日常生活はもちろん大事ですが、これまでは無くてもいいものの中で生きていたわけですよ。ところが今回震災があって、携帯、電気、電話が通じない、 テレビも映らない。その中で生きていたのはラジオと、たまたま新聞社の人が持ち込んだ新聞くらいで、みんなはそれらの情報を食い入るように求めるわけですよ。 それを見たときに、本当に必要なものと必要じゃないものが露わになった気がしたんです。

【吉岡】そのときに、必要と不必要の境目をどこに作るかなんですが、不必要なものに一喜一憂していたことが見えた。じゃあ、 情緒的なメッセージがいいのかというと違う。結局、事実なんです。現実に何が起こっているのかを淡々と伝える。
 震災とか津波の場合、地元が必要なのは生活情報ですという言い方をするんです。もちろん生活情報を必要としていますが、石巻で必要としている情報と、 隣り合っている女川で必要としている情報は違うんです。しかも刻々と変わります。生活情報もそれだけきめ細かいといいですが、 今回みたいに圏域が広い場所でテレビやラジオがやってしまうと、いつ自分のところの順番が来るのかずっと聞いていけなくてはいけなくなってしまう。 生活情報は必要ですが、それはコミュニティテレビ・ラジオがやってほしいんですよね。

【金平】マスメディアとミドルメディアとミニメディアがそれぞれ役割を考えて報道や放送を行うべきなんですよね。

◆我々、そしてメディアも「事実」の重みに負けた◆
【吉岡】そうです。でも、どれもが重視しないといけないのは「事実」なんです。でも我々は今回、その事実に負けているんです。メディアも負けている。 僕はノンフィクションをやっているからあまり「事実」「事実」と言うと嫌がられるかもしれないけれど、「事実」は確かなモノなんです。 僕らはそれを見なくてはいけないし、伝えなくてはいけないし、受け取らないといけないし、返さなくてはいけないものなんです。

【金平】確かに、僕らは「事実」の重みに負けてることがあったと思います。NHK教育テレビはずっと、徹して安否情報を流していました。被災地では電気、 携帯、テレビ、もちろんネットなんかもなくなってしまった。それまで「ツイッターやフェイスブックが既存メディアを……」みたいな議論がありましたが、 3・11以降は全く無くなってしまった。
 それを言ったら、それらの人たちは怒っていて、「僕らはその後、ユーチューブに安否情報を必死に載せて、役に立っている」と。確かにそういう面はあるが、 震災最中では全く役に立たなかった。もっと言うなら僕らメディアの役割も極小までいってしまった。それが事実であることは間違いないんです。

【吉岡】女川で津波に攫われ、4時間自分の家の上で漂流した女性に話を聞いたんですが、彼女がさりげなく、怖い言葉を言ったんです。「星がきれいだった、 月がきれいだった。こんなきれいな星を見たことがない」と。津波に攫われて流されながらですよ。
 つまりそれは街の灯がゼロになったということ。気仙沼みたいに火事にならなかったから、ひたすら真っ暗だった。夜の7時か8時くらいで、寒かったけれど、 上を見たら「なんて星がきれいなんだろう、なんて月がきれいなんだろう」。
 その一言に、津波ってこうだったんだと。下が真っ暗だから、街の暗さを彼女は、夜空がきれいだったという形で語ったわけです。その裏側になるのは 、町が全滅したということで、寒気がしたね。津波は怖いってものだと。だからツイッターとか、ツールの問題じゃなく、その言葉なんだよね。

【金平】さっき言った無用のモノとかふわふわしたものという中に、軽い言葉、つまり「言葉の重み」を失うということも、もちろん加わっています。 言葉はどんどん軽くなって、ツールになってしまう。「言葉なんて道具にしかすぎない」と思われていますが、こういうときには言葉の重みを痛感しますね。
〈了〉

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110425-00000307-tsukuru-soci


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