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松嶋 磐根

まつしま・いわね


長崎県小学校教員

松嶋磐根 1974「暗き血の淵より」『主婦と生活』pp174-180 主婦と生活社



慟哭の手記

暗き血の淵より

宿命よ、まだ私をいじめたりないのか!

血友病に苦しむわが子を見つめつづけた二十数年――

松嶋磐根(54才)


 長男、二十二才。下肢障害、立つことも、歩くこともできない。
 次男、二十才。脳内出血のため精薄、右足ひざ関節切断、立つことも、歩くこともできない。
 三男、内臓出血のため一才半のとき死亡。
 ――生まれてくる子供たちのすべてが血友病であった。この過酷な現実を、どうして宿命だと甘受できようか。
 これは、業病にたたきのめされながらも、闘い抜き、行きつづける一家族の記録である。


 松嶋磐根さんは、現在長崎県教育庁の指導課長。二十数年の教職生活にあって「美術教育を通しての人間形成」を貫いてきた。沼津小学校校長当時、県教育文化功労賞 などを受賞している。
 フィリピン戦線では通信隊長(中尉)で、最激戦地オリオン峠の数少ない生き残り。松嶋さんのまわりにいた百数十名は全滅したという。業病との闘いにもくじけぬ 強靭さと相通じるのである。


◇子供たちの体に次々と不気味な紫斑が……
 いまから二十八年前、昭和二十一年の六月。やせ衰え、疲れ果てた体をひきずりながら、私は南方から復員してきた。
 戦争勃発と同時に満州に渡り、さらにフィリピンへと転戦して五年。久しぶりに祖国を見、故郷・壱岐の土を踏みしめたのである。
 戦争の傷あとは、二十六才の私を精神的にも肉体的にも、ひどくむしばんでいた。マラリアなどの悪質な風土病の後遺症がつきまとい、結婚や職業についての展望も もてず、自信をなくしていたからだ。
 しかし、いつまでもブラブラしてはいられない。周囲のすすめもあって、幼なじみである従妹の美枝と結婚することになった。昭和二十三年、私が二十八才、妻は 二十才だった。
 職業のほうも、師範出の経歴から、教職の道を選び、島の中の小学校で教鞭をとることに決まった。やっと一人前の生活に、一歩進みだしたわけである。
 相変わらず体には自信がなく、健康な子供を生めるのだろうかという不安から、再三にわたって妻に中絶をさせた。
 中絶した妻は、必ず一週間くらいたつと出血があり、入院した。ときには鼻からも出血し、貧血を起こしたこともある。
 外からは健康そうに見える妻なのだが、女学校時代にも似たような出血、貧血の症状があったという。
 血、出血…呪わしい言葉である。これから先の一生を、ただ“血”の一字に苦しみつづけることになるなど、だれが想像しえただろうか。

 昭和二十七年、長男・敬の誕生が悲運への門出であった。
 別段の心配もなく、スクスクと成長し、かわいい盛りの二才になったある日、敬の頬にちょっとした紫斑を見つけた。
 ようやく歩けるようになった敬なので、ころがって何かに打ちつけたのだろうと気にもとめないでいたのだが…。やがて手や足にも同様の紫斑があらわれはじめた。
 この年に生まれた次男・連にまで、似た症状が出てきて、これはもうほうっておけない。
 私は二人の子供を連れて福岡に渡り、九州大学医学部付属病院で診察を受けることにしたのである。
 “単純性紫斑病”というのが、診断の結果だった。ビタミン剤を投与していればよいといわれ、何かえたいの知れぬ悪病ではないかと、案じていただけに、ホッと胸を なでおろしたものだ。
 今後生まれてくる子供についても、医師に相談してみたら、いとこ結婚の悪影響ではなさそうだし、次の子供は大丈夫だろうという返事である。
 私たちも健康な子供が欲しかった。
 そして昭和三十年暮れ、まさに丈夫な三男・葉が誕生した。


◇希望を託した三男があっけなく死んだ
 葉は、発育のよい赤ん坊だった。上の二人が病弱だったこともあって、親の目から見ると、機敏で、知能もすぐれているように思えた。
 上の二人の病弱――。悪魔の手がじわりじわりとわが家の上に伸びつつあることを示していたのだろう。
 長男と次男は、乳歯のはえかわる時期、あるいは虫歯などで、ときどき歯ぐきから出血した。たいしたこともなく止血するときもあれば、ビックリするほどひどい場合 もあった。
 口いっぱいに血のかたまりがたまり、翌日には胃の中にのみこんだ血をもどすのだろうか、ふとんも血まみれになるほど。
 それでも、初めのうちは驚いたが、どんなにひどくてもタンニンの粉末を塗布すれば止血するのである。私たちは、まだタカをくくっていたのかもしれない。
 次男の連が脳内出血の病魔におそわれたのは、葉の生まれた次の年である。
 ケイレンが起こり、瞳孔は開き、医師からは死の宣告を受ける直前まで来ていた。
「脳に出血? バカな! 高血圧の老人ならまだしも、二才の幼児なのに…」
 動かすことができない。もちろん入院もさせられない。なすすべもなく、ただ氷で冷やしつづけるだけ。
 そして連は、奇跡的に命だけはとりとめることができた。手足にはマヒが残り、知能はまったく遅れてしまった。

 だからこそ、健康そのものである葉の成長に、期待をし、希望をかけていたのに。
 昭和三十二年五月九日。私の奉職している鯨伏小学校の運動会当日であった。児童たちは、澄みきった青空の下で、元気な声をあげながら、運動場狭しと走りまわって いる。私も、病弱な敬や連のことをひととき忘れて、笛を鳴らし、教え子に声援を送っていた。
 運動会も終わりに近づいたころ、凶報がもたらされた。いちばん順調だったはずの葉が危篤だという連絡だった。
「葉が…!」
 何が原因なのか、分からなかった。
 死んじゃいけない! 葉、生きるんだ!
 心に叫びながら、運動着のまま、ころがるように二キロ半の家路を急いだ。生きるんだ! 足の運びがこんなにもどかしく思えたことはない。
 家では――
 医師が、最後の努力を試みた注射針を抜き、首を横に振っているところだった。葉の顔は蒼白になり、二度と動こうとはしなかった。
 失血死。
 全身に出血し、とくに胃に出血したのが命とりだったという。歯ぐきから出た血で口じゅうをまっ赤にしながら、一才半の短い生命を終えた葉。
「なぜ死んだんだ! なぜだ! けさ、あんなにきげんよく見送ってくれたのに!」
 叫びながら、私はくずおれた。
 あまりにも急な変事に、妻は放心状態だったらしい。私の帰宅と同時に、ワッと泣き出し、葉の体にすがりついた。
 泣け! 精いっぱい泣いてやれ!
 それが薄幸な葉への、ささやかな供養なのだ…。


◇長男は小学校を中退 次男は片足を切断
 長男の敬は、ふつうより一年遅れで小学校へ入学した。しかし、病弱な敬にとっては、学校までわずか一キロの道のりでさえ、地獄にも等しいものだったらしい。 足の関節から出血し、痛みを訴える。精神的に緊張すると、血尿まで出る。
 見かねた妻は、敬を背負って通学を始めたが、それすら難しいのである。皮下や関節から出血し、痛がる子供をムリに背負うこともできない。
 せめて小学校だけでも卒業させたいと願う母の心もくじけがちで、結局、年間五〜六十日しか出席させられなかった。
 そんな出席日数にもかかわらず、敬の成績は優秀だった。理科・社会はトップだったし、全科目でも必ず三番以内に入っているのである。
 それでも通学できるうちは、まだよかったのだ。やがて関節を中心に手足がものすごくはれあがり、もちろん激痛をともなううえ、屈伸も自由にならなくなってきた。
 これでは登校を断念せざるをえない。三年生の三学期を最後にして、敬は学校生活をあきらめることになった。

 無知すぎると笑われるかもしれない。しかし、私たちはかなり長い間、子供たちの“ほんとうの病名”を知らなかったのである。
 それまで接した医師のだれ一人として、正確な病名を診断してくれた人はいなかった。私と妻とは、わけの分からないままにただオロオロと対処するばかり。
 もっと早い時期に病名を知り、専門医の医療を受けていたら、あるいは苦難の道も多少はちがったものになったのではないだろうか。

 知能の遅れた連が九才になった夏のことである。学校にも上がれず、マヒした体で不自由なヨチヨチ歩きをしている連がふびんで、ゴーカートを買い与えた。
 外の景色を見せてやりたい親心からだった。連の喜びようは、想像した以上で、あのときの笑顔は忘れなれない。
 ところが、ゴーカートに乗って夢中で遊んでいるうち、誤って転倒し、連は右足を骨折してしまったのである。
 一か月近くつけていたギプスをとってみると、はれはいっこうにひかず、痛みも続いている。あわてて診断を受けると、なんと骨腫瘍になる恐れがあり、大きい病院に 至急入院の必要があるという。
 子供らに紫斑が出たときお世話になった九大病院。そこの整形外科へ連を入院させた。しかし、あらゆる手当ても効なく、ひざから切断する以外にないという最悪の 状態にまでなっていた。
 連が「A型B型混合血友病」と診断されたのは、このときである。血友病――このいまわしい文字が、私たちの脳裏に初めてはっきりと 刻みこまれたのだ。
 血友病患者にメスを入れるのは医学界のタブーである。手術の成否は五分五分。半分の確率で連は命を失う。 その半分に賭けて、私と妻は手術に同意した。
 約二万ccの血液(代金は大学病院の好意で研究費扱いだった)が、準備され、幸いにも手術は成功した。
 八か月後、右ひざから先をなくして退院した連を待つのは、松葉づえを利用する機能もなく、室内をはいずりまわるだけの暗い将来であった。

*****
 血友病(ヘモフィリア)とは、血液が固まりにくいため、幼時から粘膜、内臓、関節などに出血を繰り返し、やがて肢体不自由になる病気である。
 出血の治療には、新鮮血液輸血、血液凝固因子製剤などが用いられるが、血液確保の問題と高価な治療費が隘路になっている。
 劣性伴性遺伝形式により男子出生人口の一万人に一人の割合で出現するが、女性は保因者となるだけで症状を出さない。現在日本全国で約五千人の患者がいると推定 されている。
*****


◇何度「もうダメだ」と思ったことだろうか
 二人の子に激痛の発作がおそいかかるのは、気候の変わりめのときか、寒い季節の間。これがいちばんはなはだしい。
 冬の夜、うめき苦しむ敬の足腰を帯でしばりつけ、一睡もせずに、おさえつけてやることもあった。
 どんなにか痛いのだろう。苦しまぎれにつかんだ障子のさんが何本も折れ、ふとんのカバーもビリビリにちぎれる。出血であたりは赤く染まり、食事は受けつけず、 水を飲ませても吐いてしまう。
 ひとたび発作が起こると、こんな状態が十日も二十日もつづくのである。看病する親のほうが参ってしまうほどだった。
 激痛が十日でおさまるならいいほうで、どす黒い血尿などは一か月はつづく。
 あまりにも出血がひどすぎれば当然貧血を起こすから、輸血が必要だ。四百〜六百ccは打たなければならない。隣人や知人に血液の提供をお願いして歩いたことも 再三であった。
 止血剤の注射と内服薬は、小さいころから日課になってしまっている。敬も連も両腕の静脈血管が硬直し、注射針も通らない。そうなると手の甲や足に打つしか ない…。
 これでは往診にくる医師のほうでも敬遠する。注射を打ってもらえないこともしばしばである。
「注射! 注射!」
 と声をかぎりに叫ぶ子供らを前に、いくらつきっきりでいても、痛みひとつやわらげてやることもできない無力さ、腹だたしさを察していただけるだろうか。
 一年のうちに、敬も連も、一人につき確実に三回は「これでもうおしまいか、子供は死ぬのか」と思う瞬間があった。
 次の年も、また次の年も…。
 子供たちが、死んだ葉も含めて、すべて血友病であると知ったときの衝撃は、まさに電流が全身をつらぬくようなショックであった。
 まっ暗な地獄の谷に突き落とされた感じがし、看病に疲れた体が、ますます重苦しく、絶望にうちひしがれた。
 私の性分として、教壇の職務はおろそかにできず、いやむしろ、激務に体を酷使することによって、悲惨な家庭の内情から、そのときだけ目をそらそうとしていた――と いってもよい。
 薬代、往診代、注射代。経済的な負担も重くのしかかっている。月収十万のとき、ふつうで四万、多いときは五〜六万が子供の治療代に消えていった。

*****
 多くの医者は血友病と聞いただけで、患者を敬遠し、注射もしてやらない。「出血したら止まらない」という先入観が強すぎるからである。
 血友病は、たしかに出血がなかなか止まらない血液の病気だが、患者にとっては、猛烈な関節の痛みから手足を動かせなくなる“身障者問題”でもあるのだ。
「鼻血が出たり、ケガをしたりは、それほど恐ろしくはない。外から見えないところ、頭の中や腹の中、関節の出血に気づくのが遅れて、患者を子供のうちに死なせたり、 身障者にしてしまう」(神奈川県立こども医療センター・長尾大氏)
 きちんとした公立病院、大学病院などでも、血友病の真の姿を知らない医師が多すぎるといわれる。
*****


◇楽天的で明るい妻が大きな支えとなった
 私は、妻と母に、口ではいいあらわせないくらい感謝している。
 妻は性来、楽天家で、暗くなるのが当然のこんな家庭にあって、笑顔を絶やしたことがない。
 病める子らには、妻の笑顔がかけがえのない力づけになっているようだ。妻の明るさは、わが家における生命の泉であるといっても過言ではない。私にとって、妻は 唯一の頼れる人間なのだ。
 母の菊野は、今年七十八才。若くして夫と別れ、私と姉の二人を野良手伝いをしながら育ててくれた。寄る年波には勝てず、血圧が高く、眼病をわずらっているが、 孫の敬と連のために、根かぎり尽くしてくれている。
「なんの因果か知らんばってん、この子らばかりが、なんで苦しまねばならんと。代われるものなら、代わってやりたか」
 母は口ぐせのようにグチをこぼし、そっと目がしらを押さえている。

 ふとしたことから、血友病に効果があるという薬のことを知り、私は八方手を尽くした。あちこちの薬局、医師をたずねてみたが、知っている人はほとんどいない。
 血友病という病気が、世間からはもちろん、肝心の医学界においてさえ、正しい理解が行き渡っていないことを、つくづくと感じたものである。
 暗中模索するうちに、やっと東京の安藤さんという方に問い合わせることができ、「AHF」という薬を紹介してもらった。安藤さんは、全国ヘモフィリア(血友病) 友の会常任理事をされている方だった。
 たしかに“地獄で仏”のような効果的な薬である。大きな箱の中に、血液の凝固成分の粉末と、蒸留水と点滴設備がセットになって入っている。
 ひどい出血が始まったら、この粉末を蒸留水に溶かし、点滴するのだ。もちろん、医師でなければ操作できない。
 薬の止血効果は抜群である。現在の私たち一家にとって、最大の貴重品といえよう。特定温度で保存するため、わが家の冷蔵庫には常時「AHF」が何本も入っている。 裏庭には、薬の空き箱が山のように積まれている。
 しかし、だんだんと薬に対しての抗体ができてくるのだろうか。一本(一箱)ですんだものが、最近は最低三本、多いときには五本必要になってしまった。
 一本分、つまり一箱の値段は八千七百円である。敬と連が同時に出血しはじめでもしたら、アッという間に十箱くらいはなくなってしまう。
 精薄の連はともかく、敬は家の経済状態をよく知っており、ギリギリまで痛みをこらえることがある。高価な薬だから、気をつかってくれているのだ。
 この薬は、十三才までの患者なら無償供与されることになっている。県によっては年齢制限を撤廃し、何才でも無償になるうらやましいところもあるそうだ。残念ながら 長崎県では年齢制限が生きており、二十二才と二十才のわが子に恩典はない。


◇命とひきかえてもいい 子供を歩かせてやりたい
 長男・敬は学校こそ小学三年までしか行かなかったが、知能は高いようだ。十三才ごろから、電波・テレビ・ラジオの技術知識を本や雑誌で身につけ、隣近所のラジオを 無料で修理して喜ばれた。
 電気店が敬遠したようなスクラップ寸前のものまで直してしまうのである。一時は修理技術を、高校生のグループが習いにくるほどだった。
 寝たきりでも、グチや不平を言わず、痛みに耐えながらクラシックギターをつまびいていることもある。ギターも教則本や雑誌でまったく独学でマスターしたものだ。
 私が勤めから帰り、自宅についたとき敬のギターが聞こえると、どんなにホッとすることか。一日一日が綱渡りなのだ。  その敬も、四年前までは、体の調子のよいときは庭におりて、土や芝の感触を楽しんでいたのだが――。その年、前からはれていた大腿部がひどい出血を起こし、赤紫の 風船のように大きくふくれ上がった。
 はれがひいたとき、後遺症として感覚マヒと筋肉硬化が生じ、70度以上の屈伸が不可能になってしまった。さらにひざ関節が硬直し、立つことも座ることも正常には できない状態になって、今日に至っている。
 近所の子供たちがオモチャやプラモデルを作ってくれと持ってくると、どんなに痛くてもニコニコと応対していた敬。
 精薄の弟、連をだれよりも気にかけ、おかずの不公平を監視するほどだった、やさしい敬。
 しかし、あまりにも長い闘病生活が、敬の人生観を少しずつ変化させていったようだ。明るかった性質が、かなり気短になりグチをいうようにもなった。人に会うのを いやがるようにもなった。
「死んでもいいから、大きな病院に入院して、イチかバチか、賭けてみたい」
 とまでいうのである。
 奈良医大の病院が、こちら次第で入院をOKしてくれるところまではこぎつけた。
 もっかの障害は三つある。病人の輸送のこと(離れ島に住む不便さ)。入院経費のこと。そして、妻を付き添わせるとすれば家の留守番のことである。
 たとえ結果はどうなろうと、敬の希望はなんとかかなえてやりたいのだが。
 次男の連は、二十才の幼児である。本も読めず、字も書けず、テレビ番組も理解できない。出血で口を真っ赤にしながら、薬をくれと手を合わせて懇願する姿を見るに つけ、親の無力を嘆くのみなのだ。
 私も、もう五十四才である。高血圧、腎臓、心臓…どこもかしこもガタがきており、毎日八種類の薬を飲んでいる。
 この私が万一、というようなことは、恐ろしくて考えないようにしているのだ。子供たちの存在が、私の生命をながらえさせてくれるのだと信じて…。
  天にまします神々よ
  私のこの命を捧げもしよう
  哀れな病める子らが自分の足で
  しっかと大地を踏みしめて
  一歩、二歩、いや半歩でもよい
  自分の力で、歩かせてくれるなら



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