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大西 赤人

おおにし・あかひと


作家

◆公式ホームページ 「大西赤人/小説と評論」
http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/akahito.htm

1955年東京に生まれる。中学2年生の夏にショート・ショート「計画」で執筆を開始。
16歳で第一創作集『善人は若死にをする』でデビュー。

◆著書

浦高事件
1971 『善人は若死にをする』 光文社

1972 『人にわが与うる哀歌』 光文社
1973 『時と無限』 創樹社 大西赤人作品集・大西巨人批評集
1974 『新編・善人は若死にをする』 角川文庫
1975 『君、見よ、双眼の色』 大和書房
1977 『赤い傘』 立風書房
1978 『時の流れに足跡を』 集英社文庫
1980 『同時代のルポルタージュ』 大和書房

「神聖な義務」

1983 『熱い眼』 光文社
1985 『鎖された夏』[熱い眼・改題] 光文社文庫
1985 『血液型の迷路』 朝日新聞社
1986 『影踏み』 講談社
1986 『善人は若死にをする』 光文社文庫
1987 『引き継がれた殺人』 光文社文庫
1988 『夜の道連れ』 光文社文庫
1995 『悪意の不在』 すずさわ書店
1995 『時代の罠』 すずさわ書店
1996 『影踏み』 光文社文庫



■ 大西赤人 僕の「闘病記」1(1971年まで)
(前略)
 色々な出来事があったが、なんとか中学校も修了に近づいた。そして一九七一年に入り、進路選択の時期。勉強は、家に居ても、やってやれないことはない。だから、 高校そのものに、執着はそれほどなかった。しかし、家にジッとしていては、どうしても交友や社会生活から切り離される。そこで、勉強プラスX≠フ主としてX を求めるべく、高校へ進もうと決心。校舎が家に近く二階建てであり、その他、色んな意味で僕の通学修学に最も適当な埼玉県立浦和高校を選んだ。普通でもやらなかった だろうが、一月中旬から入試前々日までの入院で、入試のための勉強は、ほとんど皆無に近かった。
 ところで、なぜ、闘病記≠ノこのようなことを書くのか。それは、この浦高入試で、僕は、一自分の体が悪いという事実を、初めて露骨な人権侵害・差別の対象に されたからである。埼玉県の高校入試制度を、ここで簡単に紹介しよう。入試成績と内申書(中学時代の成績を全九教科について記載した物)とを同等に評価。つまり 内申書重視である。入試一発屋はなくなるのだ。僕は、この内申書の総合点数が低い。実技四課目の低評点が響いたのである。だから、入試で相当高い点を取っても、 内申書と見合わされて機械的・形式的に評価されると、不合格になる可能性が大きい。しかも、身体の障害が不合格の材料にされることもあり得る。そこで前もって (一九七一年一月二十五日)父が、浦高に出向き、浦高校長と面談して、そのことについて尋ねた。すると校長は、ハッキリ次のように答えた。

一 、赤人君の修学実情に基づく内申書の内容については、それ相当の考慮をもって、実質的に評価することが出来る(筆名注・これこそが真の意味の「内申書重視 だ」)。
二 、赤人君の身体条件は、全く入学拒否理由にならない。
三 、他の高校よりも、本校のほうが、最もよく赤人君の状況を理解し、その学習に協力し得る。
四 、赤人君のような特異体質障害者の入学は、本校全生徒に何かと好影響を与えるに違いない。
五 、入学願書の提出は結構である。

 これを聞いて、家中が、とにかく安心した。入試(学力検査)さえ、ある程度の点を取れば、合格する、という自信が出来た。そして、三月二日の入試を受けたのである。 浦高校舎玄関口までは乳母車だったが、そこから試験場の保健室−−当日病気の受験者数名が居た−−へは、松葉杖で歩いて行った。入試翌日の新聞に載った模範解答を 見てみると、試験の成績は、まず合格可能の成果を上げたと信じられた。
 ところが、三月七日の発表では不合格。僕としては、なんとも腑に落ちなかった。そして、おかしな選抜事情が、やがて露呈し出したのである。三月九日に浦高教頭他 一名が、家にやって来て、「赤人君の入試テストの成績は、優に合格圏内だったので、浦高は、入学について念入りに検討したが、県の現行内申制度の制約のために、 つまり、赤人君の内申書の総合評点が低いために、不合格とせざるを得なかった」というような説明をするのだ。こんなことが承認できるだろうか? 校長の言った 五原則は、どこに行ったのか? 内申書の額面総点が低いからこそ、父が、事前に校長(浦高当局)を訪れて、質問もし説明もしたのだ。それに対してあのように答え、 後になると、「内申書が悪いので不合格」などとヌケヌケと言っている。
 その後、結局、浦高は僕の先天性特異体質による身体障害を不合格理由にしたのだ、という事実が、徐々に明確になってきた。この不当な処置に抗議して、父は、浦高 および県教育委員会と談判したり、二度にわたって文部大臣宛《あて》の公開状を雑誌(『婦人公論』一九七一年七月号および十一月号)に掲載したりしたが、まだ埒は あかない。浦高の態度には、不審な点が続出する。しかも、県教委教育局の一指導主事は、「浦高は頭も一流・体も一流≠フ者たちだけが入学するのだ」と恥知らずの ことを公言しさえしたのだ。もっとデタラメな現象も、たくさんある。
 だが、吉報もあった。この浦高の処置に憤慨した教員、会社員、主婦、学生などの人々が中心となり、大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会=i筆者注・ 後《のち》に障害者の教育権を実現する会≠ニ改称)が発足した。一九七一年十月十六日には約百名が出席して、浦和市民会館で結成大会も開かれた。全国各地から会員 が増え、会員数も二百人を越えた。僕と同じような不当なケースが、過去にしばしばあったこともわかってきた。
 この事件に対して様々な誤解もあるようだが、これの根本的問題点を皆に理解してもらいたい。障害者には、教育が一番必要ともいえる。その障害者が、現状では、希望 する学校になかなか入ることができない。会は、県教育局に何度も交渉を行ない、選抜事情再調査に追い込んだ。すぐに解決はしないだろうけれども、必ず最後まで追及の 手をゆるめはしない。
 先ほどの浦高関係者たち(あるいは世間一般の多くの人々)は、血友病とは、ちょっとしたことで血が吹き出す、というような過大印象を持っているらしい。むろん そんなことはない。しかも、現在では「AHG」のような特効薬もある。早晩もっと決定的な療法も発見されるだろう。
 とにかく、僕は今後も「気を落とさず、積極的に」生きて行くつもりだ。



■ 大西赤人 僕の「闘病記」2(1981年まで)

 浦高の問題については、結論から言えば、ついに納得の行く解決には至らなかった。浦高あるいは県教育局との度重なる交渉の中で、彼らのひどく頑迷で閉鎖的な 考え方がますます明確になり、障害者に対する厄介者扱いがいよいよ露わになっていくばかりであった。
 交渉での進展がないため、一九七三年三月には父が(僕の法定代理人として)、埼玉県教委ならびに浦和高校の両当局者を職権濫用罪(僕に対する不当入学拒否)と 涜職《とくしょく》罪および文書偽造罪(若干名に対する不正情実入学許可)とによって告訴・告発した。しかし、一九七四年一月、浦和地検で不起訴処分決定。これを 不満として父は早速、浦和地裁へ付審判請求を行なった。だが、同年二月棄却。次いで同年三月六日、東京高裁へ抗告。これも棄却。続いて同年三月二十七日、最高裁へ 特別抗告。けれども、これも同年五月二日、棄却に終った。
 即ち、最高裁まで争ったとは言いながら、その対象は直接には不起訴の是非に過ぎなかった。つまり、県教委・浦高の行為は刑事事件とはならずじまいであり、裁判と いうリングへは上がって来ないままに終ったわけである。
 結局、浦高−県教委−検察庁−裁判所とつながる機構において、このような人権無視・憲法違反の障害者差別事件は、ひたすら押し隠し、蓋《ふた》をすべき事柄で あったろう。もし大西の申し立てを認めて、それが蟻の一穴となり、日本中で障害者が勢いづきでもしたらエラいことだ−−彼らはそんなふうに考えたのではないか、と 思いたくなる。
 こうして、僕の浦高間題に限れば解決を見なかったものの、それ以来、障害者教育に関して一般的には、ささやかながら前向きの様子が眼についた。浦高をも含めた 全国各地の高校・大学への障害者入学が、毎春、新聞紙面のニュースとして少なからず取り上げられ、幾らかなり明るい見通しを感じさせなくもない時期もあった(また、 昨今あちこちで盛んに暴露され、問題になってきた不正入学・裏口入学なども、既に僕の告訴・告発事件においてその端的一面が指摘されていたわけである)。
 ところが、一九七九年春の例の「養護学校義務化」あたりを大きな節目に、状況は再び悪化の一途をたどっている。「三歩進んで二歩さがる」ならぬ「一歩進んで五歩も 六歩も飛びすさる」という感じだ。障害を持つ子供は自動的(事実上強制的)に養護学校へ送り込む−−そんなシステムが着実に確立されつつある。総理大臣が「普通学校 と養護学校との選択(決定)権は最終的には保護者が持つ」との当然な主旨の発言をすると、文部大臣が「いや、その権利は教育委員会にある」とデタラメな訂正を行ない、 総理もそれを追認する、という言語道断の有様なのだ。
 最近、小・中学校で、障害児をはじめとする広く「弱者」に対して、陰湿でしつこい弱い者いじめがはびこっているらしい。これなども、「弱者」切り捨てに向かい つつある世の中を反映している。大体、典型的「弱者」たる障害者(児)が普通学級への通学を望む場合、必ず「普通学級のほうが障害児にとってプラスである」という 面が主張され、たしかにそれもその通りだ。しかし、それと同時に、またはそれ以上に、障害児と共に生活することは、一般健康児にとって大きなプラスになると思う。 「弱者」を厄介者扱いすることしか知らぬ子供では、十分に人間的な人間に成長することは決して出来ないだろうから。
(後略)


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