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Kitamura
「サイボーグたちの讃歌」
北村健太郎
『Birth ― Journal of Body and Society Studies』:176-177.
「まあ、俺らは
サイボーグやからな」
私がある血友病者と話していたとき、彼は何でもないことのように言った。彼と会うのは初めてだったので、主に彼は最近の自分の体調について、
私は血友病者の歴史を調べていることを話した。テクノロジーの話をしていたのではない。お互いの自己紹介をしているときに、彼はさも当然というように
「サイボーグ」と言い、私も「そうですね」と答えた。この5年ほど日本の血友病者の歴史を調べてきて、私は血友病者を取り巻く事態やその変化を把握する上で、
「サイボーグ」は重要な鍵概念と考えている。
私が「サイボーグ」に最初に引っ掛かったのは、
ダナ・ハラウェイ
『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』である。「これは何か奥が深いぞ」という直観が働いたが、
すぐに読むことはなかった。しばらくして、「サイボーグ宣言:二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム」(Haraway[1991=2000:285-348])
を読む機会に恵まれた。私は一所懸命に読んだが、当然ながら充分理解したとは言い難い。ハラウェイは「本書の各頁には、
奇妙な境界上の生きものたち――猿、サイボーグ、女性――が生息している。こうした生きものたちは(中略)撹乱的な位置を占めてきた存在である。
(中略)文字通り怪物=表すもの(monsters)なのであり、この語彙は(to)demonstrate(表す)という語彙と、共通の語根以上のものを共有している。
怪物(モンスター)たちは事物を記号化する」(Haraway[1991=2000:15])「サイボーグ――サイバネティックな有機体(オーガニズム)――とは、
機械と生体の複合体(ハイブリッド)であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である」(Haraway[1991=2000:287])と言う。
「サイボーグ」概念の重要な示唆は、不明瞭になっていく境界/区分である。現在、私たちの眼前で「人間と動物の境界」「動物−人間(生体)と機械の区分」
「物理的なるものと物理的ならざるもの」(Haraway[1991=2000:291-297])の境界がどんどん曖昧になっている。
話を
血友病に戻そう。現在、血友病者は
血液製剤を日常的に使いながら生きている。
血液製剤は人体の血液を原料とし、それを精製加工して使っている。
血液製剤によって世界につながっている血友病者はいかなる存在なのか。血液製剤を「ヒトの一部」と考えれば「人間と動物の境界」の侵犯と言えるだろうし、
「工業製品」と考えれば「動物−人間(生体)と機械」の融合と言える。血友病者はあらゆる二元論から脱却し、境界を撹乱して構築し直している。
血友病者は自らの生体内で生成できない凝固因子を必要に応じて外部から取り込む「充電式サイボーグ」である。携帯電話の充電を思い浮かべれば容易に理解できよう。
ALSの人工呼吸器の装着は「外付けサイボーグ」と言える。
「私は、ダナ・ハラウェイの構想を真に受けています。真に受けるべきだと考えています」(小泉[2003:55])というのは、
小泉義之
『生殖の哲学』である。
小泉は「怪物を歓待したい」(小泉[2003:56])と言う。血友病者や
ALS患者は、既に「怪物」「交雑個体」
の域に突入している。小泉はクローン技術の規制に対して「立法者の想像力は、生殖技術の力能を目の前にして面食らっている。カントは、『判断力批判』で、
人間の想像力の限界点を印すような自然物のことを、崇高なるものと称していたが、「交雑個体」は崇高なるものに相当する。カント以後においては、
崇高概念は美術作品や政治的営為に対してだけ適用されてきたが、いまやカント本来の語義に立ち返って、
「交雑個体」という美術=技術作品かつ自然物に対してこそ適用されるべき」(小泉[2003:87-88])だと述べる。
もし、小泉を真に受けるなら、血友病者やALS患者など境界を撹乱する存在は、崇高なる「交雑個体」という美術=技術作品かつ自然物ということになる。
現在、人間の想像力の限界点に達する自然物に近づくあらゆる試みがなされている。サイバネティクス研究からカーナル・アート、トランスジェニック・アート、
デザイナー・ベビーまで縦横無尽に「サイボーグ」を論じているのが、
高橋透
『サイボーグ・エシックス』である。
サイバネティクス研究者であるケヴィン・ワーウィクは、自らの神経系とコンピュータをインターネットで接続して「人工の手」を操作することに成功した。
一方、アーティストのステラークは、世界各地の端末から自らの身体に取り付けた筋肉刺激用パッドを通じて、
ステラークの意図しない行動が指令されることをサイボーグ・パフォーマンスとして見せた。ワーウィクとステラークの試みは、
インターネットによる身体の拡張の点では同じである。しかし、両者には大きな相違がある。ワーウィク的サイボーグは機械に変身しても、
最終的なコントロール権は手放さないのに対し、ステラーク的サイボーグは双方向のコントロールを認めている。血友病者の場合は、
血液製剤を使用して自らの身体の止血管理を行なうサイボーグであるから、鍵概念はコントロール権を手放さないワーウィク的サイボーグと言える。
高橋は続けて、オルランのカーナル・アート〔肉的芸術〕(Carnal Art)を取り上げる。ごく簡単に言えば、
これは自分自身に施した整形手術によるパフォーマンスである。
オルランの身体は、何にも規定されない空虚な身体であり、常に彫塑可能性に開かれている。さらに、トランスジェニック・アート、
デザイナー・ベビーという遺伝子組み換えレベルのサイボーグへと話が進んでいく。血友病に戻ると、血液製剤の一部も既に遺伝子組み換え製剤が使われている。
「人工的に」血液製剤を製造することができれば感染症の問題が解消されるという発想から登場した。もちろん、「100%安全な」血液製剤は存在しないし、
医療は常に不確実性を孕んでいる。最近の私は「現在の医療技術なら何でもできる」という「奇妙な医療過信」の蔓延を感じるのだが、思い過ごしだろうか。
高橋は、最終的にダナ・ハラウェイの「サイボーグ・エシックス」を手がかりにして、これまで見てきた研究者やアーティストの
「サイボーグ」の試みを位置付けようとする。
以上、「サイボーグ」に関わる3冊を紹介した。私たちは、どの学問領域にせよ、既に「人間は、従来のように「人間の尊厳」とか
「人間性」といったものを手放しで主張することはできなく」(高橋[2006:149])なっている現実を見据え、「人間」について、それぞれの研究テーマについて、
考えていく必要があるだろう。
■文献
◆
Haraway, Donna J. 1991
Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature,
London: Free Association Books and New York: Routledge = 2000
高橋 さきの 訳,
『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』,青土社,558p. ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241
\3600
[amazon] ※ b02.
◆
小泉 義之 20030530
『生殖の哲学』,河出書房新社,
126p. ISBN-10:4309242855 ISBN-13:9784309242859 \1575
[amazon]
/
[kinokuniya] p
◆高橋 透 2006
『サイボーグ・エシックス』,水声社,180p. ISBN-10: 489176578X ISBN-13: 978-4891765781
\2100
[amazon] ※ c02
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