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『輸入製剤によるHIV感染問題調査研究 第1次報告書』
http://www.mers.jp/old/whats/rprt_index.htm


まえがき

そもそものはじまり   養老 孟司
医療の安全を巡って   村上 陽一郎

第一部 この調査は何をめざすか
(1)調査の目的・経過と方法

第1章 調査の意図と経過   栗岡 幹英
第2章 薬害エイズという「経験」―未来につなぐために   横田 恵子
第3章 聞き取りの方法論―相互行為としての聞き取り   蘭 由岐子
第4章 非加熱高濃縮製剤によるHIV感染被害研究の方法論について   樫村 志郎

(2)薬害HIV事件における相互作用の解明へ
第5章 相互行為としての告知へ   好井 裕明
第6章 血友病治療における家族主義あるいはパターナリズムについて   山田 富秋
第7章 自責と孤立―被害者調査のための覚書   西田 芳正

(3)医療の論理とはどういうものか
第8章 比較衡量という言い分   種田 博之
第9章 「血友病治療」確立期に見る医療モデルと健常者中心主義――薬害エイズ事件が問いかけるもの   要田 洋江
第10章 家庭療法公認までの血友病治療と1966-82年の医師・患者   樫村 志郎
第11章 医師はHIV感染にどう対処したか   栗岡 幹英

(4)聞き取り以外の方法による関連研究
第12章 補論 雑誌記事見出しで見るエイズ認識   種田 博之

第二部 資料編
第13章 血友病治療の歴史と患者をめぐる諸問題   若生 治友
第14章 「薬害エイズ」と血友病を巡る医療現場調査への期待と不安   太田 裕治
第15章 薬害エイズ発生原因調査への視線   花井 十伍

第三部 データ編

薬害HIV文献一覧
調査研究委員会名簿・研究分担者名簿



まえがき

 輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会(養老孟司委員長、以下、「調査研究委員会」と呼ぶ)は、2001年9月以来、いわゆる「薬害エイズ」問題についての調査研究に着手しています。
 この小冊子は、現在進行中のこの調査に関する最初の報告書であり、経緯と意図を説明するとともに、これまでの成果をふまえていくつかの分析視角を提示するものです。この調査を遂行するにあたり、私たちの基本的な立場をお示しして、この薬害事件の当事者や関係者のみなさん、あるいはこの事件に関心をお持ちの方からのご意見やご理解を得たいと考え、まだ調査途上のデータをも一部利用するかたちで公表することにいたしました。
 もちろん関心を惹かれる章からお読みいただいてかまいませんが、この調査全体の意図や方法をふまえてご意見やご感想をお寄せいただければ幸いです。

2003年6月15日

輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会
連絡先 〒422-8529 静岡市大谷836
栗岡 幹英(静岡大学人文学部教授)
E-mail:
Tel/Fax:



そもそものはじまり   養老 孟司

 今回の研究計画に私を引き込んだのは、花井さんと太田さんである。はじめにお話をうかがったとき、たいへんもっともで、かつ結構な話だと思った。医療の社会学的な調査は行われているようで、行われていない。いつもそう思っていたからである。
 こうした仕事を医者自身がするのは、いささか筋違いである。どこの社会でも、医療界は独特の価値観とやり方を持った、共同体を構成している。それを内部からだけ観察したのでは、見えない部分が生じる。これは日本の「世間」を「社会」と認識することのむずかしさとよく似ている。自分の首の後ろをじかに見ることができるのは、他人だけなのである。
 たまたま主題は血友病とHIV感染の問題だが、問題はそれだけにかぎらない。基本にあるのは、医療をどう考えるべきか、である。それを考え出すと、医学の基礎からはじまって、さまざまな問題を概観しなければならないことに気づく。医学の基礎とはなにかをたえず考えていたから、私は『人間科学』という本を書いた。
 江戸時代の医学はいわゆる漢方で、明治以降は西洋医学だけが正式の医学となった。こういう乱暴なことをしたのは、アジアではおそらく日本だけであろう。中国は洋医と中医のどちらもが医者であり、インドでも伝統医学つまりアーユルヴェーダを学ぶ人も医者だし、西洋医学を学ぶのも医者である。乱暴なことをいうと、しかしそれで日本人が滅びたわけではない。
 つまり医学・医療は、一面では社会政策の典型なのである。どのようなやり方をとるか、それはその社会の意志による。日本の場合、それが西洋化という独自の道をとったことは、じつは興味深いことである。
 それがいわゆる血友病エイズとどう関係するのか。輸入医学はただちにいわゆるグローバリゼイションと結びつく。血友病エイズが広い意味ではそこに関係していることは、明らかであろう。多くの医者は発展途上国は医療が「進んでいない」から、血友病エイズのような問題があまり起こらなかったと考える。それならそれは本当に「進んでいない」のか。途上国では幼児死亡率が高い。それだけを考えても、医療の進歩はよいことに違いないじゃないか。それが医学の常識であろう。それを救ったのは、なんのことはない、まずスポーツ飲料である。脱水を防止したからである。これは医療か。
 私はさまざまな疑問を医療に対して持っていた。だから医学を学んだのに、臨床医学の道に進まなかった。基本的なところに疑問があったのでは、実地に進むことができない。手がすくんでしまう。もちろん医療はしばしば待ったなしである。そこで「良心的に」、なにかを実行するのがむずかしいことは、よくわかっている。それを逃げていたのでは、医療の本質を逃す。
 血友病エイズの問題で、患者さんたちがどう考え、医者がどう判断したか、それをていねいに見なおすことは、右のような意味で、じつに重要だと考えた。問題が特殊だという見方もあろうが、特殊な事例が全体をよく表現することも多い。幸い、私から見れば若手の社会学者の方たちが積極的に参加してくださるということで、適任かどうかわからないが、座長くらいは引き受けようと思ったのである。
 こうした研究は、本来は医療界の内部から起こったとしても、不思議はない。だから最初から私は、医師会がなんらかの関与をすべきではないかと思っていた。しかし具体的にはさまざまな問題があることはわかっている。だから当面、まったく独立の研究として発足したことは、それなりによいことだと思っている。
 なによりもまず結果を見なくては、何も言えない。この報告がそのはじまりだと理解している。

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医療の安全を巡って   村上 陽一郎

医療は本質的にハイリスクである
 比較的穏やかな事例から始めよう。生殖補助医療と言われるものの進展に加えて、少子化の弊が喧伝されることもあって、不妊治療が花盛りである。日本産科婦人科学会の申し合わせに逆らって、代理出産に手を貸す医師も現れる状況である。そうした医師たちは、「患者に望みがあり、医師にその望みに応える技術があるとき、その望みに応えないのは、責任の放棄に等しい」という論理を立てる。
 もちろん患者の望みはすべて正しいことにはならない。「ヒポクラテスの誓い」のなかには、患者から求められても、致死量の薬は与えない、とか、堕胎には手を貸さない、という件がある。しかし、一方で、日本国憲法第十三条は、明確にこう宣言する。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。ここに現れる「幸福追求権」は、アメリカの独立宣言に謳われたものであり(その影響が大きかったフランス革命では、無視された)、この憲法が帯びるアメリカ的色彩の一つと言えるが、「患者」(そもそも「不妊症」が病気であり、それに悩む人が「患者」であるのか、という問いは、あり得るだろうが)が自らの幸福を追求するという意味で、「子供を持ちたい」という望みを持つこと自体は、軽視するわけにはいかないだろう。
 さて、不妊治療は、多くは現在の規制の枠内で行われているが、しかし、その成功率は、最良で20パーセント程度だと言われる。卵の採取から、着床までの人工的な操作は、決して100パーセント安全とは言いがたいが、それはともかく、期待できる成功率が20パーセントであるようなバッターに、野球チームは誰も高額の俸給や支度金は払わないだろう。医療と野球とを比べるのは不謹慎だ、という声が聞こえそうだが、医療というのは、基本的に「リスク」を土台にして営まれる事業であることは、十分認識しておいてよいと筆者は信じる。

リスクの定義
  「リスク」はカタカナ語である。日本語には、該当する概念が無い。ヨーロッパ語におけるリスクは、幾つかの成立条件を備えた概念である。第一に、それが、人間の行為に付随するもとの考えられている点を挙げよう。もともとは、「断崖が迫る水路を、巧みに船を操って抜ける」という意味で使われた語から派生したと言われるこの語は、「危険を顧みずに、敢えて行う」という原意からも明らかなように、人間の行為について使われるものである。第二には、人間の行為が、単に危険を冒す、つまり「冒険」であるだけではなく、何らかの利益が期待されるために行われる行為であることが前提とされる。「危険を顧みず、水路を抜けよう」とするのは、水路を抜けることに伴う何らかの利益が期待されているからである。したがって、そうした行為に伴われるコストの一つがリスクである。 第三に、そこで期待される利益についても同じだが、リスクは、「あるかもしれない」ものであることが挙げられよう。例えば、「私が老衰で自然に死ぬ」ことをリスクとは言わないのである。それは「あるかもしれない」ことではなくて、「ある」こと、つまり絶対的な必然だからである。「あるかもしれない」は<probable>であるから、リスクは常に「確率」<probability>という形で把握される。第四に、第三の性質とも重なるが、リスクは人間の手で回避することができる(かもしれない)危険である。地震や津波のような自然災害の発生そのものはリスクではない。その発生を人間は制御する手段を持たないからである。しかし、それによって「1000人の死者が発生する」ことや、「50人の死者が発生する」ことはリスクである。それらは、ある程度、人間の手で制御可能な領域に属するからである。

医療とリスク・マネージメント
 上のようにリスクの特徴を定義して見ると、はっきりしてくることがある。それは医療が、まぎれもなく、リスクを扱う世界であることである。マネージメントという言葉は、経営、あるいは管理と訳されるのが通例だが、そのもとになった動詞<manage>には、「抜け目無く、巧みに扱う」という意味がある。つまり「リスク・マネージメント」とは「リスクの生起確率を減らし、またリスクが起こってしまったときにあり得る被害を減少させるために、人間が抜け目無く、巧みに処理する」ことなのである。
 病気は人間の生命を脅かす危険である。医療は、少なくともある種の病気に関しては、その危険の生起確率を減らすことができる。例えば感染症の感染ルートを遮断すること、つまり防疫は、その一つの手段である。もっとも、こうした方法は、医療というよりは「警察」の役目であるかもしれない。実際、ペストなどの流行時には、公安委員会に類する組織がこの役割を果たしてきた。日本でも厚生省(現厚生労働省)が成立する昭和10年代以前には、医療は多く内務省(つまり警察)の管轄であった。それ以外にも、ワクチンの接種、消毒など、自然災害と違って、病気(特に感染症)は、ある程度は、その生起確率を人為的に下げることができる。
 また、一旦発症してしまっても、それが致命的な危険にならないように、被害を減少させる手段を凝らすことも、医療のもう一つの重要な役割である。しかも、医療においては、いまさらEBM(Evidence-Based Medicine)などと謳わなくとも、もともと、そうした手段が、「確率」によってのみ支えられていることは明らかである。効果が100パーセント保障されている治療法はない。他方、危険が100パーセントであるような治療法は、恐らく治療法とは言わないだろう。
 通常であれば、傷害罪が確実に適用されるような、他害行為が、医療に限って許されるのも、それに伴う患者の健康上の利益と、同じくそれに伴うリスクとを秤量した上で、利益が優先するという判断があるからであって、医療にはどんな場合でも、この利益とリスクのトレード・オフにおける判断が付きまとう。
 このことは、医療者と患者ないしはその予備軍が、ともに十分に認識しておかなければならないのであるが、両者とも、ときにこの問題を正面から見据えることを怠りがちになる。
 その証左の一つが、医療の世界にこれまで、リスク・マネージメント(あるいはセーフティ・マネージメント)の制度が導入されてこなかった、というところにある。

リスク・マネージメントの制度化
 ある医師は、筆者が医療の世界に、リスク・マネージメントの手法のイロハの一つ、「フール・プルーフ」を取り入れるべきである、と説いたのに反応して、こう言われた。「医療の世界では、携わる人間はすべて高度職能者だから、フール・プルーフなどという制度は馴染まない」と。この医師の発言には、少なくとも二つの大きな誤解がある。第一には、「フール・プルーフ」の「フール」とは、確かに「愚行」を意味するが、しかし、その「愚行」を犯す人間は、職能的訓練の行き届いていない初心者か、素人に限られる、という誤解である。なるほど、初心者や未熟者は、「愚行」を犯しやすいことは確かだろう。研修医が書く処方箋には、調剤部からの疑義照会の頻度が格段に高い、という統計もある。しかし、制度としての「フール・プルーフ」は、初心者や未熟者だけを想定したものではないことは、航空機業界のような、関与する人々がすべて高度に訓練を受けた職能者である現場においても、あるいは、そのような現場においてこそ、十分に整えられていなければならない、と考えられていることからも明らかであろう。まさしく「人は誰でも(高度職能者であっても)間違える」のである。
 第二の誤解は、医療において起こり得るリスクは、上に述べたような、医療に本来的に備わったものであって、それはむしろ医療という制度の本質であり、医療者はそれを承知しているのだから、いまさら制度を立ち上げたところで、どうなるものでもない、という判断である。医療者は、日常の医療行為が、本来的にリスク・マネージメントである、というある種の認識は持っているかもしれない。しかし、医療という制度が本来的にリスク・マネージメント的な性格を備えているのだから、それ以上、他の分野の制度を取り入れる必要はない、という誤った判断をもちがちである。しかし、現代の医療は、リスク・マネージメントの見地から見れば、極めて原始的、というか、その成果をほとんど取り入れていない、というべき状態にある。「10年遅れている」というアメリカの状態は、そのことを指しているのである。

リスク・マネージメントのあらまし
 リスク・マネージメントの手続きを大まかな形で説明することにしよう。その前提にあるのは、現場全体を一つのシステムと考える、という発想である。今日の医療に最も欠けているのが、このシステムとしての医療の把握ということであったように、筆者は感じている。システムは、要素やサブ・システムの複雑な組み合わせである。その要素には、医師や看護師、あるいは薬剤師や理学療法士など、そして患者という人間が相当する。そのほかには、診断装置をはじめ、ハードな器械や器具、そして薬剤のような「物」もまた、重要な要素となる。そのどこかに問題が生じれば、システム全体の機能に障害が起こり、そのアウトカムが、思わしくない方向に動く。各要素は、ある期待される機能の幅のなかで行動する(この「行動」という言葉は、日本語では多くに人間や動物にのみ当てはめられるが、ここでは、「物の振る舞い」も含めて、広義に使っている)が、それぞれの要素はまた、期待される幅の中で、不適切な行動もすることがある。一般に、「物」については、そうした不適切な行動が生じる可能性の幅は比較的小さいが、人間の場合には、この幅は極端に大きくなり、時には、想像の範囲を超えた突飛な行動に走ることもある。
 こうしたシステム的把握が、医療に対しても、適切な形で当てはめられることが、リスク・マネージメントの医療への導入にとって、不可欠の前提となるし、この前提がこれまで医療に欠落してきた理由は、実は筆者には説明できない。いずれにしても、その前提に立つとき、マネージメントはおおよそ三つの段階に分けられる。
 その第一段階は、リスクの認知と呼ばれる。何をリスクと見なすか、という点である。ここでは、現場からの生の報告が最も重要になる。どのような場合に、どのようなことが起こるのか。実際に起こってみなければ、判らないようなことがらが山積している。筆者は、ある中規模の病院のインシデント・リポートの制度化のお手伝いをしたことがある。その院長は、暫くしてお会いしたときに、夜が眠れなくなった、とおっしゃる。自分の管轄下に、毎日こんなことが起こっているなんて、想像もつかなかったからだとのことだ。管理者として、本来それでは失格なのだが、それは今は措こう。問題は、インシデント・リポートの制度が、極く最近まで、ほとんどの病院や医療機関で全く存在しなかった、という事実である。製造業にしても、運輸業にしても、最近はサーヴィス産業においても、インシデント・リポートに相当する「ヒヤリ・ハット体験」の報告制度は、当たり前のことになっている。当事者の不注意、当事者の機転で回避できた事故、などなど、正も負も、一切、正直で正確な出来事の報告が、リスクの認知においては、最良の材料であり、資源である。
 例えば、薬剤の調剤ミスは、一見人間の不注意によるものであるが、しかし、場合によっては、薬剤の劣化という「物」の行動にその原因が由来している場合、あるいは、包装が似ていて間違い易い、という場合など、色々あるだろう。人間の不注意を咎めているだけではなく、システムの要素としての人間と、もう一つの要素としての薬剤との間の関係が、システム内で見えてきて、初めて、問題の解決である狭義のリスク・マネージメントに進むことができるのである。したがって、こうした事例の一つ一つが、システムのなかでのリスクへの対応を作り上げていくために、最良の素材なのであって、当事者の法律的、倫理的責任を免除してでも、正確な情報の収集が不可欠になるのである。航空機事故や鉄道事故では、民事や刑事の責任を追及することを主眼にした警察の調査とは全く別個に、事故情報の収集に当る第三者機関としての事故調査委員会が法制化されているのも、そうした考え方の結果であり、航空機事故では、最近の国際司法界の傾向は、単純な乗務員の不注意、あるいは不適切な行動による事故であっても、当事者の刑事責任は求めない、という判例が増えているのも、同じ流れのなかで理解することができるだろう。医療の世界でも、こうした制度が定着すれば、同じような方向に進むはずである。
 こうした収集された情報に対して、第二段階では、その評価が行われる。評価という日本語は、誤解を招き易いが、ここでの「評価」に相当する英語は<evaluation>ではなくて、<assessment>である。システムのアウトカムが負であっても、正であっても、どの要素のどの決断や振る舞いが、最終的な結果にどのような影響を与えたのか、それを克明に分析することによって、正の結果に際しては、それを強化するための手立て、負の結果に関しては、それを回避するための手立てを、考案し、実践することを可能にする。それが「評価」の本質である。
 そして、そうした手立てを考案し、実践するのが、狭義のリスク・マネージメントということになる。
 三つの段階に分けて考えて見たが、すでにこれまでの記述でも明らかなように、この三段階はお互いに入り組んでおり、実際には、これらは、共時的に行われるのが普通である。
 筆者の念願は、医療の世界に、こうしたシステム思考と、それを前提にしたリスク・マネージメントの制度を確立することであり、本委員会に関りを持つに至ったのも、偏に、そうした念願からであることを付記して、本稿の結びとする。

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調査研究委員会名簿
 委員長 養老 孟司 北里大学大学院教授
 委員  村上陽一郎 国際基督教大学大学院教授
 委員  樫村 志郎 神戸大学大学院法学研究科教授
 委員  栗岡 幹英 静岡大学人文学部教授
 委員  要田 洋江 大阪市立大学大学院生活科学研究科助教授
 委員  好井 裕明 筑波大学社会科学系教授
 
研究分担者名簿

 蘭 由岐子 賢明女子学院短期大学生活学科助教授
 折井佳穂里 東京都健康局専門相談員
 樫村 志郎 神戸大学大学院法学研究科教授
 菅野 昌史 神戸大学大学院法学研究科在学中
 栗岡 幹英 静岡大学人文学部教授
 佐藤 彰一 立教大学法学部教授
 種田 博之 産業医科大学医学部講師
 西田 芳正 大阪府立大学社会福祉学部助教授
 平野 真理 ロンドン大学大学院文化人類学講座在学中
 文分 邦彦 神戸大学大学院法学研究科在学中
 山田 富秋 京都精華大学人文学部教授
 要田 洋江 大阪市立大学大学院生活科学研究科助教授
 横田 恵子 大阪府立大学社会福祉学部助教授
 好井 裕明 筑波大学社会科学系教授
 和田 仁孝 九州大学大学院法学研究科教授

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