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『輸入血液製剤によるHIV問題調査研究 第2次報告書』
http://www.mers.jp/old/whats/contents2/rprt_index.htm


はじめに   養老 孟司

<目次>
第2次報告書発刊にあたって
医療における安全について   村上 陽一郎

第一部 論文編
第1章 第一次報告書の再検討と社会学的分析のめざすもの   山田 富秋
第2章 血友病治療の黎明期――ある医師の語りから   栗岡 幹英
第3章 包括医療の意義を語る――ある医師の語りから   好井 裕明
第4章 医師は何をどう語ったか――M医師の語りを中心として   蘭 由岐子
第5章 非加熱製剤の投与継続へと方向づけた医師の「経験・体験の世界」   種田 博之

第二部 資料編
第6章 「輸入血液製剤によるHIV感染」に関わった人々の役割    若生 治友
第7章 社会問題としての「薬害エイズ」    太田 裕治
第8章 血友病医療の背景と患者会の経過   太田 裕治
第9章 薬害被害者の薬害根絶運動〜我活動家たるや〜   花井 十伍

第三部 データ編
第10章 血友病文献リスト

あとがき



はじめに   養老 孟司

 近年、若い世代による、日本社会の解析が広まりつつある。現実の日本に即した「社会学」の誕生というべきかもしれない。ウェーバーを強く批判した『マックス・ウェーバーの犯罪』という書物が、社会的な賞を受けるほどである。旧世代の抵抗は大きいであろうが、それはやむをえない。ともあれ十九世紀の西欧型、イデオロギー的な社会学が変わりつつある。門外漢が見ると、そんな気がする。血友病エイズ問題の調査も、わかっていたことではあるが、息の長い仕事になった。研究者の方々のご努力も大変であろうと推察する。この報告書はその成果の一部である。
 現代の社会学は、若者を対象とするような部門がどうしても「進む」。若者という社会事象自体が「新しい」ということもある。フリーターとかニートとか、いわば以前に「なかった」と思われる対象を分析するのは、抵抗が少ない。一般の興味も大きい。学問としてもやりやすい。しかしこの調査のように、いわば新しくて古い問題を扱い、しかも既成の社会階層ではもっとも硬い、専門職である医師を対象とすることは、本当に大変なのである。
 私自身は個人の、しかも身体を扱う解剖学という専門を選んだ。社会の問題に関わるつもりなど、毛頭なかった。むしろ社会学的な問題は大嫌いだった。しかし実際の解剖学は死体を扱う。死体を扱い始めると、なんとそれは「社会事象そのもの」であることに気づく。客観的な、物理的存在としての死体など、どこにもありはしない。それどころか一人称、二人称、三人称の死体がある。ということは、死者は尋常の社会人なのである。しかし一般には、まさか死体を「ふつうの人」などとは夢にも思っていない。それはホトケだからである。つまり「客観的、物理的」であるはずの死体が、日本社会の思考、あり方を逆照射してしまうのである。
 具体的にいえば、死者には遺族があり、関係者があり、それを見る人がある。そこにはさまざまな人たちの死体に対する感性がある。そこにどこまで私が立ち入るべきか、悩んだことも多い。だから大学を辞めたときには、なんともほっとしたのである。もうそうした問題から「逃れられる」と思ったからである。
 むろんそれは甘い。人は社会的存在であって、「死んでも」そこから逃れることはできないのである。なんのかのといいながら、だから私は、逃れたはずの、「自分には関係のない」社会学的な対象に引き込まれてしまうことになるのである。 われわれはきわめて面倒な社会を作ってしまった。最近しばしばそう思う。それをなんとかするたには、ここで行われているような地道な努力を続けていくしかない。それが学問の王道なのだと思う。

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第2次報告書発刊にあたって

本報告書の成り立ち
 本書は、「輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会」(以下、「委員会」と略す)による2冊目の報告書です(以下、『第2次報告書』と略す)。社会(科)学の論文のスタイルをとっているので、この問題に関心を持つより広い読者の皆さんには、若干難しいところがあるかもしれません。社会科学の言葉はその他の世界にも届くものであるべきだという思いはありますが、今現在においてはなかなか実現できていないことを率直に認め、今後の課題にしたいと思います。
 さて、この委員会は、2001年から血友病患者多数が輸入血液製剤によってHIVに感染したいわゆる「薬害エイズ」事件の社会学的調査研究に携わってきました。2003年6月には『輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究─第1次報告書─』を刊行しています(以下、『第1次報告書』と略す)。この報告書は、後で述べるように、さまざまな反響を呼びました。そのなかには、「公開質問状」の形をとった非難や、比較的身近な医師による厳しい批判もありました。今皆さんが眼にしている『第2次報告書』は、その反響を踏まえて作成されているので、この間の経緯について若干触れておきたいと思います。
 このいわゆる「薬害エイズ」事件については、東京HIV訴訟弁護団が5巻からなる大部の記録を残しているほか、東京・大阪の両原告団および/もしくはそれらを母胎にして結成された団体が、社会学・社会福祉学等の専門家と共同して行った2度にわたる被害実態調査があります。前者は非常に詳細な記述や重要な資料を含む労作ですが、被害者側弁護士の立場から編纂され、その内容は「薬害エイズ訴訟」を中心としたものになっています。この点について、私たちの調査では「提訴以前から積み重ねてきた自分たちの活動がまったく無視されている」と指摘するある関係者の証言を得ています。多様な立場からの事件の記録が必要な所以です。後者は、被害者の状況を主に統計的方法で、ときにはインタビュー調査も併用しながら綿密に調べあげ、貴重かつ重要な成果を挙げています。被害実態が明らかにされたことで、被害者の救済やその運動に大きな力となったことはいうまでもありません。加えて、徹底した「当事者参加型」調査を貫き、被害当事者と緊密に連携を取りつつその視点を成果に反映させた点は、本邦の社会科学史上特筆すべきものです。とはいえ、被害者の救済をめざして行われたその調査では、この事件について記録されるべきいくつかの事柄が残されたままになっています。被害者の視点が事件を理解するための主要な立脚点であるべきだとはいえ、薬害根絶という被害者の思いを実現するにも、被害者のみならず多様な関係者の証言を得る必要があるでしょう。
 これらの記録や調査は、当事者らによるその他の数多くの関係文献とともに、この事件を語る上で不可欠なものとなっています。とはいえ、これらによっても残されている空白がまだまだ存在します。事件の重大さやこの国における薬害の歴史から見て、この空白を少しでも埋めることは、社会(科)学の責任に属します。前掲『第1次報告書』の第一章でも述べましたが、できる限り多様な角度から関わった多くの当事者の証言を記録し、この事件の社会的意味を議論するための素材を蓄積することが不可欠でしょう。たとえば、この事件に関わった血友病専門医や各地で血友病治療に当たった医師たちは、概ね沈黙を守ってきました。この一方の重要な当事者の証言がないままでは、この事件の社会的意味を考えたり、いわんや確定したりすることはできません。私たちは、このような趣旨から、まず医師の聞き取り調査を始めました。『第1次報告書』では、横田恵子が、医師コミュニティを調査対象とすることの意義について述べています。この医師調査は、2002年から科学研究費補助金の交付対象となり、2005年までの4年間にわたって計480万円の交付を受けることになりました。
 以上のような問題意識は、特定非営利活動法人「ネットワーク医療と人権」からの働きかけを得て具体的な調査活動として実現し、この報告書を含む2冊の報告書に結実しました。私たちは、今後も医師のみならずより多様な関係者について引き続き調査を行い、報告書の刊行等を重ねながらこの事件の社会的な意味を問う議論の中に参加していくつもりでいます。今後の新たな調査計画については、後書きで簡単に触れたいと思います。

第1次報告書と批判的反応
 2年前に刊行された『第1次報告書』は、その時点までに得られた医師の聞き取りを一部紹介したとはいえ、調査を導く問題意識を素描するという性格のものでした。その内容はホームページで公開しており、どなたにでも見ていただけます(http://133.70.21.55/yakugai-hiv/index.html)。私たちは、この調査を開始するにあたって、当事者からの徹底した「聞き取り」を行うという方針を立てました。この方法について、事件から20年が経過して記憶も薄れ、また記憶違いや意図的な歪曲もあるだろうとの批判を受けることがあります。私たちがめざすのは、「正しい」あるいは「正確な」事実の収集を超えて、日本の社会や医療にとって「薬害エイズ」事件がもつ意味を考えるということです。この観点から、日々刻々変化する状況にどう対応し、その過程でなにを考えたかということを、当時の立場からだけでなく、現在の視点でも語ってもらいたいと思います。そして、そのために当事者たちの語りの場面に私たち自身もインタビューアーとして参加しているのです。このような考え方は、『第1次報告書』第3章で蘭由岐子がアクティブ・インタビューの方法論として明らかにしていますが、同様の論旨を、読者はこの『第2次報告書』の山田富秋論文に見いだすでしょう。
 『第1次報告書』の上記3章に続く各章では、研究分担者がそれぞれにこの問題について当面抱いている問題意識や用いる方法を素描しています。それらをすべて紹介する余裕はありませんが、いくつかの論文についてとくに言及しておきたいと思います。それらの論文は、刊行直後から当初は私たちに協力してインフォーマントになってくれた何人かの医師やその他の関係者から強い批判を浴びたからです。はじめに言っておけば、調査協力への拒否を伴うこれらの激しい批判は、私たちの予想外の出来事でしたし、いまだにとても残念に思っています。私たちは、そのなかに一部誤解も含まれていると判断しますが、しかし『第1次報告書』に対するこのような批判のあり方そのものが、日本の社会、医療、そして社会科学が置かれている状況を反映しているとも考えています。つまり被害者や医療ユーザー一般と医療や社会科学等の専門家との間、そしてそれらの専門家同士の間に共通の議論の場がなかなか成立しないという状況です。
 以下にそれらの批判に言及しますが、その前にひとつお断りしておかねばなりません。この『報告書』では、共同の調査の結果として作成された聞き取りデータをそれぞれの研究者が利用するというかたちで執筆しています。個別の論文は研究者相互の討議・検討に付されていますが、「委員会」としての最終的な公式見解を表明するものではありません。また、私たちは、現時点では、各個人がこの事件をめぐる議論の過程に社会(科)学のスタイルで参加しようとしているのであり、それぞれの論文は各執筆者にとってさえ未来永劫に確定された「定言命題」ではないのです。各々の論文について多様な立場からの批判が寄せられることそのものは、私たちにとって歓迎すべきことです。それらの批判には、各々の執筆者が社会(科)学の研究者としてその後の研究成果によって応えてゆきたいと思います。もちろん、このような考え方そのものに対しても批判を寄せられましたが、この『第2次報告書』もそのような姿勢を踏襲していることをとりあえずご承知おきいただければ幸いです。なお、これらの批判については、すでに言及した本報告書の山田論文が主題的に取り扱っています。論点が大幅に重複しますので、詳細な議論をお読みになりたい方はそちらをご覧ください。
 さて、医師らによる批判の主な論点は、すでに言及した『聞き取り』の「客観性」への疑念を別にすれば、2点あると思われます。ひとつは、私たちが当初掲げた調査の基本方針に実際には従っていないのではないか、ということです。私たちは、「産官学の癒着」と表現することのできる既成の解釈図式にとらわれずに調査を進めることを、調査に応じてくださった医師に説明してきました。この図式は、この事件が「薬害」であることを前提にその発生の責任を企業、行政および血友病専門医のそれぞれに帰するという内容を持っています。しかし、この事件が個人に責任を問うことのできる人為的事象であるのか、あるいはもしそうだとしてもその責任は誰に問われるべきなのか、という問題は、複雑で微妙なものです。私たちがこの問題について先入見を排して臨もうとしたのは当然であり、かつ医師の皆さんにも共感を持っていただいたことのひとつでした。
 この問題に関する医師からの批判は、明示的には第4章の樫村志郎による論文に向けられました。樫村がそこで「当時においては、通常の注意力を持ち、問題を中立的客観的に観察できる者であれば、警告を見落とすことはなかった」と記述していることについて、これは医師の責任を問うているのであり、これまでの議論とどこが違うのか、というわけです。このことに関連して、医学的な検討が不十分ではないか、使用している文献が一般向け中心だ、等々の指摘がなされました。ただし、樫村ばかりでなく、この調査の全体を通しての意図は、特定の立場の当事者の責任を問うことではありません。樫村は、この事件が回避可能な「人災」なのか、それとも不幸な「事故」であったのかという問題について、ひとつの視点を提示したわけです。この種の議論をすぐに個人あるいは特定の立場への責任追及と結びつけて考えるなら、社会的事件の意味を問うという(実践法学以外の)社会科学の営みは成立しないでしょう。この点について、この『第2次報告書』では副委員長村上陽一郎の論説が示唆的な提言を示しています。なお、当時の医学的議論を充分踏まえていないとの批判には、二冊の報告書の種田博之による論文を含む今後の研究で応えてゆきたいと考えています。
 第二の批判は、『第一次報告書』の議論のなかで不適切な、あるいは端的に誤った概念化が行われているということでした。この批判は、主に要田洋江の論文で用いられた「100%療法」および「健常者中心主義」という用語に対して向けられました。「100%療法」という用語は医学界には存在しないという指摘は、それ自体としては正しいでしょう。医学文献にそのような記述は見出せません。しかし、要田が当の論文で指摘した出血予防に対する積極的な対処法やその基礎になる考え方が存在し、これを踏まえてある関係者が私たちのインタビューでこのような表現を用いたというのが、要田の論拠となっています。要田は、さらに進んでこの血友病に対する積極的治療をめざす考え方が「健常者中心主義」の表れだと主張しました。要田が障害学のなかから導入したこの概念は、それが理念として実在して規範的に具体的な行為者を拘束していたと主張されるなら、確かに問題があり、この点については私たちの中でも繰り返し議論されたところです。しかし、要田のひとつの意図は、当事者が具体的な行為過程で参照していた「医学的モデル」の内容と医療や患者の生活におけるその働き方を解明することでした。このための方法として「健常者中心主義」を概念化することは可能かもしれません。この問題については、再三言及しているこの報告書の山田論文もご参照いただければ幸いです。

『第2次報告書』について
 第2次報告書は、上に一部を紹介したさまざまな反響を踏まえて作成されました。この報告書は、私たちの「聞き取り」という方法によって産出された成果であり、この方法がなにを実現できるかということを判断していただくために役立つでしょう。読んでいただくに際して、お願いがあります。第一に、私たちは聞き取りという方法で、調査に応じてくださった方がこの事件について何を見聞きし、考え、現時点でどう意味づけているのかを明らかにしたいと考えています。この意味では私たちインタビューア兼論文執筆者も得られた成果の共同の参加者ですが、しかしそれは私たちがそこに語られた調査対象者の方々の見解や意見に賛成し、あるいは語られた「事実」を容認していることを意味しません。そこに語り出された内容が読者の皆さんに賛否の意見やあるいは共感、怒りなどの思いを引き起こすことがあるかもしれませんが、とりあえずは上記の立場からの社会(科)学の報告書として読んでいただくようお願いいたします。加えて言えば、私たちは、この報告書をこれからも継続する研究の一部として発表します。ここに書かれたことが、委員会はもちろん、各執筆者にとっての最終的な結論だとは考えないでいただきたいと思います。
 この事件の社会的意味を問いなおすという課題について、日本エイズ学会でのシンポジウムを始め、被害当事者や医師、ジャーナリスト等の皆さんが試みているところです。この国の医療と社会をより快適なものにするために、私たちも社会(科)学の立場から建設的な討議の過程に参加したいと考えています。このため、引き続き調査と報告を続けたいと思いますが、今後の研究計画については後書きで触れることにします。
 この報告書に対するご意見やご批判、その他お気づきの点については、下記委員会事務局にEメールあるいは封書でお送りいただければ幸いに存じます。

2005年3月3日
血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会
事務局長 栗岡 幹英(奈良女子大学文学部教授)
調査委員会事務局所在地
〒630-8506 奈良市北魚屋西町 奈良女子大学文学部
Tel: 0742-20-3773 E-mail:

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医療における安全について   村上 陽一郎

 この問題を論じるときに、決まって浮かんでくる一文がある。アメリカの「医療の質」検討委員会が出した、安全を主題的に扱った報告書(邦訳:医療ジャーナリスト協会訳『人は誰でも間違える』2000年、日本評論社)のなかの一節、医療は他のハイリスク産業に比べて、安全対策が10年は遅れている、というものである。筆者は、日本の状況は「10年では済まないのでは」と思っているが、ではそれは何故なのだろうか。

医療は本質的にハイリスクである
 比較的穏やかな事例から始めよう。生殖補助医療と言われるものの進展に加えて、少子化の弊が喧伝されることもあって、不妊治療が花盛りである。日本産科婦人科学会の申し合わせに逆らって、代理出産に手を貸す医師も現れる状況である。そうした医師たちは、「患者に望みがあり、医師にその望みに応える技術があるとき、その望みに応えないのは、責任の放棄に等しい」という論理を立てる。
 もちろん患者の望みはすべて正しいことにはならない。「ヒポクラテスの誓い」のなかには、患者から求められても、致死量の薬は与えない、とか、堕胎には手を貸さない、という件がある。しかし、一方で、日本国憲法第十三条は、明確にこう宣言する。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。ここに現れる「幸福追求権」は、アメリカの独立宣言に謳われたものであり(その影響が大きかったフランス革命では、無視された)、この憲法が帯びるアメリカ的色彩の一つと言えるが、「患者」(そもそも「不妊症」が病気であり、それに悩む人が「患者」であるのか、という問いは、あり得るだろうが)が自らの幸福を追求するという意味で、「子供を持ちたい」という望みを持つこと自体は、軽視するわけにはいかないだろう。
 さて、不妊治療は、多くは現在の規制の枠内で行われているが、しかし、その成功率は、最良で20パーセント程度だと言われる。卵の採取から、着床までの人工的な操作は、決して100パーセント安全とは言いがたいが、それはともかく、期待できる成功率が20パーセントであるようなバッターに、野球チームは誰も高額の俸給や支度金は払わないだろう。医療と野球とを比べるのは不謹慎だ、という声が聞こえそうだが、医療というのは、基本的に「リスク」を土台にして営まれる事業であることは、十分認識しておいてよいと筆者は信じる。

リスクの定義
 「リスク」はカタカナ語である。日本語には、該当する概念が無い。ヨーロッパ語におけるリスクは、幾つかの成立条件を備えた概念である。第一に、それが、人間の行為に付随するもとの考えられている点を挙げよう。もともとは、「断崖が迫る水路を、巧みに船を操って抜ける」という意味で使われた語から派生したと言われるこの語は、「危険を顧みずに、敢えて行う」という原意からも明らかなように、人間の行為について使われるものである。第二には、人間の行為が、単に危険を冒す、つまり「冒険」であるだけではなく、何らかの利益が期待されるために行われる行為であることが前提とされる。「危険を顧みず、水路を抜けよう」とするのは、水路を抜けることに伴う何らかの利益が期待されているからである。したがって、そうした行為に伴われるコストの一つがリスクである。 第三に、そこで期待される利益についても同じだが、リスクは、「あるかもしれない」ものであることが挙げられよう。例えば、「私が老衰で自然に死ぬ」ことをリスクとは言わないのである。それは「あるかもしれない」ことではなくて、「ある」こと、つまり絶対的な必然だからである。「あるかもしれない」は<probable>であるから、リスクは常に「確率」<probability>という形で把握される。第四に、第三の性質とも重なるが、リスクは人間の手で回避することができる(かもしれない)危険である。地震や津波のような自然災害の発生そのものはリスクではない。その発生を人間は制御する手段を持たないからである。しかし、それによって「1000人の死者が発生する」ことや、「50人の死者が発生する」ことはリスクである。それらは、ある程度、人間の手で制御可能な領域に属するからである。

医療とリスク・マネージメント
 上のようにリスクの特徴を定義して見ると、はっきりしてくることがある。それは医療が、まぎれもなく、リスクを扱う世界であることである。マネージメントという言葉は、経営、あるいは管理と訳されるのが通例だが、そのもとになった動詞<manage>には、「抜け目無く、巧みに扱う」という意味がある。つまり「リスク・マネージメント」とは「リスクの生起確率を減らし、またリスクが起こってしまったときにあり得る被害を減少させるために、人間が抜け目無く、巧みに処理する」ことなのである。
 病気は人間の生命を脅かす危険である。医療は、少なくともある種の病気に関しては、その危険の生起確率を減らすことができる。例えば感染症の感染ルートを遮断すること、つまり防疫は、その一つの手段である。もっとも、こうした方法は、医療というよりは「警察」の役目であるかもしれない。実際、ペストなどの流行時には、公安委員会に類する組織がこの役割を果たしてきた。日本でも厚生省(現厚生労働省)が成立する昭和10年代以前には、医療は多く内務省(つまり警察)の管轄であった。それ以外にも、ワクチンの接種、消毒など、自然災害と違って、病気(特に感染症)は、ある程度は、その生起確率を人為的に下げることができる。
 また、一旦発症してしまっても、それが致命的な危険にならないように、被害を減少させる手段を凝らすことも、医療のもう一つの重要な役割である。しかも、医療においては、いまさらEBM(Evidence-Based Medicine)などと謳わなくとも、もともと、そうした手段が、「確率」によってのみ支えられていることは明らかである。効果が100パーセント保障されている治療法はない。他方、危険が100パーセントであるような治療法は、恐らく治療法とは言わないだろう。
 通常であれば、傷害罪が確実に適用されるような、他害行為が、医療に限って許されるのも、それに伴う患者の健康上の利益と、同じくそれに伴うリスクとを秤量した上で、利益が優先するという判断があるからであって、医療にはどんな場合でも、この利益とリスクのトレード・オフにおける判断が付きまとう。
 このことは、医療者と患者ないしはその予備軍が、ともに十分に認識しておかなければならないのであるが、両者とも、ときにこの問題を正面から見据えることを怠りがちになる。
 その証左の一つが、医療の世界にこれまで、リスク・マネージメント(あるいはセーフティ・マネージメント)の制度が導入されてこなかった、というところにある。

リスク・マネージメントの制度化
 ある医師は、筆者が医療の世界に、リスク・マネージメントの手法のイロハの一つ、「フール・プルーフ」を取り入れるべきである、と説いたのに反応して、こう言われた。「医療の世界では、携わる人間はすべて高度職能者だから、フール・プルーフなどという制度は馴染まない」と。この医師の発言には、少なくとも二つの大きな誤解がある。第一には、「フール・プルーフ」の「フール」とは、確かに「愚行」を意味するが、しかし、その「愚行」を犯す人間は、職能的訓練の行き届いていない初心者か、素人に限られる、という誤解である。なるほど、初心者や未熟者は、「愚行」を犯しやすいことは確かだろう。研修医が書く処方箋には、調剤部からの疑義照会の頻度が格段に高い、という統計もある。しかし、制度としての「フール・プルーフ」は、初心者や未熟者だけを想定したものではないことは、航空機業界のような、関与する人々がすべて高度に訓練を受けた職能者である現場においても、あるいは、そのような現場においてこそ、十分に整えられていなければならない、と考えられていることからも明らかであろう。まさしく「人は誰でも(高度職能者であっても)間違える」のである。
 第二の誤解は、医療において起こり得るリスクは、上に述べたような、医療に本来的に備わったものであって、それはむしろ医療という制度の本質であり、医療者はそれを承知しているのだから、いまさら制度を立ち上げたところで、どうなるものでもない、という判断である。医療者は、日常の医療行為が、本来的にリスク・マネージメントである、というある種の認識は持っているかもしれない。しかし、医療という制度が本来的にリスク・マネージメント的な性格を備えているのだから、それ以上、他の分野の制度を取り入れる必要はない、という誤った判断をもちがちである。しかし、現代の医療は、リスク・マネージメントの見地から見れば、極めて原始的、というか、その成果をほとんど取り入れていない、というべき状態にある。「10年遅れている」というアメリカの状態は、そのことを指しているのである。

リスク・マネージメントのあらまし
 リスク・マネージメントの手続きを大まかな形で説明することにしよう。その前提にあるのは、現場全体を一つのシステムと考える、という発想である。今日の医療に最も欠けているのが、このシステムとしての医療の把握ということであったように、筆者は感じている。システムは、要素やサブ・システムの複雑な組み合わせである。その要素には、医師や看護師、あるいは薬剤師や理学療法士など、そして患者という人間が相当する。そのほかには、診断装置をはじめ、ハードな器械や器具、そして薬剤のような「物」もまた、重要な要素となる。そのどこかに問題が生じれば、システム全体の機能に障害が起こり、そのアウトカムが、思わしくない方向に動く。各要素は、ある期待される機能の幅のなかで行動する(この「行動」という言葉は、日本語では多くに人間や動物にのみ当てはめられるが、ここでは、「物の振る舞い」も含めて、広義に使っている)が、それぞれの要素はまた、期待される幅の中で、不適切な行動もすることがある。一般に、「物」については、そうした不適切な行動が生じる可能性の幅は比較的小さいが、人間の場合には、この幅は極端に大きくなり、時には、想像の範囲を超えた突飛な行動に走ることもある。
 こうしたシステム的把握が、医療に対しても、適切な形で当てはめられることが、リスク・マネージメントの医療への導入にとって、不可欠の前提となるし、この前提がこれまで医療に欠落してきた理由は、実は筆者には説明できない。いずれにしても、その前提に立つとき、マネージメントはおおよそ三つの段階に分けられる。
 その第一段階は、リスクの認知と呼ばれる。何をリスクと見なすか、という点である。ここでは、現場からの生の報告が最も重要になる。どのような場合に、どのようなことが起こるのか。実際に起こってみなければ、判らないようなことがらが山積している。筆者は、ある中規模の病院のインシデント・リポートの制度化のお手伝いをしたことがある。その院長は、暫くしてお会いしたときに、夜が眠れなくなった、とおっしゃる。自分の管轄下に、毎日こんなことが起こっているなんて、想像もつかなかったからだとのことだ。管理者として、本来それでは失格なのだが、それは今は措こう。問題は、インシデント・リポートの制度が、極く最近まで、ほとんどの病院や医療機関で全く存在しなかった、という事実である。製造業にしても、運輸業にしても、最近はサーヴィス産業においても、インシデント・リポートに相当する「ヒヤリ・ハット体験」の報告制度は、当たり前のことになっている。当事者の不注意、当事者の機転で回避できた事故、などなど、正も負も、一切、正直で正確な出来事の報告が、リスクの認知においては、最良の材料であり、資源である。
 例えば、薬剤の調剤ミスは、一見人間の不注意によるものであるが、しかし、場合によっては、薬剤の劣化という「物」の行動にその原因が由来している場合、あるいは、包装が似ていて間違い易い、という場合など、色々あるだろう。人間の不注意を咎めているだけではなく、システムの要素としての人間と、もう一つの要素としての薬剤との間の関係が、システム内で見えてきて、初めて、問題の解決である狭義のリスク・マネージメントに進むことができるのである。したがって、こうした事例の一つ一つが、システムのなかでのリスクへの対応を作り上げていくために、最良の素材なのであって、当事者の法律的、倫理的責任を免除してでも、正確な情報の収集が不可欠になるのである。航空機事故や鉄道事故では、民事や刑事の責任を追及することを主眼にした警察の調査とは全く別個に、事故情報の収集に当る第三者機関としての事故調査委員会が法制化されているのも、そうした考え方の結果であり、航空機事故では、最近の国際司法界の傾向は、単純な乗務員の不注意、あるいは不適切な行動による事故であっても、当事者の刑事責任は求めない、という判例が増えているのも、同じ流れのなかで理解することができるだろう。医療の世界でも、こうした制度が定着すれば、同じような方向に進むはずである。
 こうした収集された情報に対して、第二段階では、その評価が行われる。評価という日本語は、誤解を招き易いが、ここでの「評価」に相当する英語は<evaluation>ではなくて、<assessment>である。システムのアウトカムが負であっても、正であっても、どの要素のどの決断や振る舞いが、最終的な結果にどのような影響を与えたのか、それを克明に分析することによって、正の結果に際しては、それを強化するための手立て、負の結果に関しては、それを回避するための手立てを、考案し、実践することを可能にする。それが「評価」の本質である。
 そして、そうした手立てを考案し、実践するのが、狭義のリスク・マネージメントということになる。
 三つの段階に分けて考えて見たが、すでにこれまでの記述でも明らかなように、この三段階はお互いに入り組んでおり、実際には、これらは、共時的に行われるのが普通である。
 筆者の念願は、医療の世界に、こうしたシステム思考と、それを前提にしたリスク・マネージメントの制度を確立することであり、本委員会に関りを持つに至ったのも、偏に、そうした念願からであることを付記して、本稿の結びとする。

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あとがき

 「薬害HIV」事件の社会的意味を検証するという課題は、特定の団体や個人のみによってできることではありません。前書きで強調したように、私たちは社会(科)学の立場からこの課題に参加したいと思っています。私たちの課題は、できる限り多様な語り手を見出し、この事件に対する多様な視点や多様な考え方を明らかにすることです。このため、これまでの主として医師を対象にした調査に加えて、患者・家族・遺族を対象にした被害者調査に着手します。
 被害者の方々にとっては、この事件をこと細かに回想することが辛い作業になる場合があるでしょう。そのような辛い作業をあえて被害者の方にお願いするには、もちろん納得していただけるだけの理由が必要です。これに関して、私たちは、統計的な数の中の一人に還元されないような具体的な証言をできるだけ詳細に残すことが、このような事件を再び繰り返すことを防ぐために役立つだろう、という見通しをもっています。多くの人びとが、不幸にもこの事件の過程で亡くなられた患者の皆さんに関する肉親の方々の証言、あるいは現にHIV感染に関わる身体的・精神的・社会的被害と闘っておられる被害者の皆さんの詳細にわたる証言に耳を傾けてほしいと思います。それぞれの被害者のごく日常的な営みがどのように変わっていったのか、その一刻々一刻になにを思い、考えていたのか、そうした詳細な語りのリアリティが読者の心の中にとどくことで、この事件の記憶が刻みつけられるはずです。そして、社会の多くの人びとがこうした証言に接する機会をもつことが、医療や社会のこの種の社会的事件への対処を促すはずです。つまり、被害者の皆さんのできる限り詳細な証言が、この種の事件の再発を防ぎ、医療と社会が個人の幸福に資するためのいしずえになるものと、私たちは信じています。
 この被害者調査を始めるにあたり、関係の皆様に心からご支援とご協力をお願い申し上げます。
 なお、本報告書第一部に発表される論文の元となる研究は、日本学術振興会による下記の科学研究費補助金の対象となっており、おのおのの論文はその成果である。

研究課題名 輸入血液製剤によるHIV感染被害問題の社会学的研究――医師への聞き取りを中心に
研究年度 2002年-2005年、研究種別 基盤研究B(1)、課題番号14310076
研究代表者 栗岡幹英(奈良女子大学)

委員長 養老 孟司 北里大学大学院教授
副委員長 村上 陽一郎 国際基督教大学大学院教授
委員 蘭 由岐子 神戸市看護大学看護学部助教授
委員 樫村 志郎 神戸大学大学院法学研究科教授
委員 栗岡 幹英 奈良女子大学文学部教授(事務局長兼任)
委員 好井 裕明 筑波大学大学院人文社会科学研究科教授
委員 種田 博之 産業医科大学医学部講師

研究分担者名簿
青山 陽子 東京大学大学院医学系研究科客員研究員
蘭 由岐子 神戸市看護大学看護学部助教授
折井 佳穂里 東京都福祉保健局健康安全室感染症対策課エイズ対策係専門相談員
樫村 志郎 神戸大学大学院法学研究科教授
菅野 昌史 いわき明星大学人文学部講師
倉石 一郎 東京外国語大学外国語学部助教授
栗岡 幹英 奈良女子大学文学部教授
佐藤 彰一 法政大学大学院法務研究科教授
種田 博之 産業医科大学医学部講師
西田 芳正 大阪府立大学社会福祉学部助教授
本郷 正武 東北大学大学院文学研究科博士課程/日本学術振興会特別研究員
的場 智子 東京大学大学院医学系研究科客員研究員
南山 浩二 静岡大学人文学部助教授
山田 富秋 松山大学人文学部教授
要田 洋江 大阪市立大学大学院生活科学研究科助教授
横田 恵子 神戸女学院大学文学部助教授
好井 裕明 筑波大学大学院人文社会科学研究科教授
和田 仁孝 早稲田大学大学院法務研究科教授

2005年4月1日現在

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