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Kitamura
「錆びた炎」
*
血友病 *
「神聖な義務」 *
「ブラックジャック」
*
浦高事件 *
小児慢性特定疾患治療研究事業
小林久三『錆びた炎』は、誘拐をテーマとした長編推理小説。1977年1月10日、角川書店。
幼い血友病児が誘拐され、その生命にかかわる「72時間のタイム・リミット」が刻々と捜査陣に迫る! ……というのが、この小説の設定である。
しかし、「72時間のタイム・リミット」は、小林久三の誤った血友病の認識によるものであり、このほか血友病に関する誤った記述が多数見つかった。
血友病者にとってはいわくつきの小説である。その後、映画化もされたため、血友病者への認識を誤らせるとして問題は大きくなった。
■ 小説 『錆びた炎』
あらすじ
http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha/Jsabitah.html
■ 映画 『錆びた炎』
配役・スタッフ
http://www.jmdb.ne.jp/1977/da000390.htm
(
日本映画データベース)
■
清張と正史の間 最近の推理小説をめぐって
(前半略)
偏見生む恐れ
昨年『元号裁判』(別冊文芸春秋)で、元号という極めてシリアスなテーマの小説化に成功した佐野洋氏が、エッセー集『推理日記』(潮出版)で、
小説中の警察官の言葉遣いのでたらめぶりや作家の視点に対する疑問など、最近の推理小説にみられる問題点を歯に衣(きぬ)きせぬ調子で指摘している。
ファンには見逃せない一冊だが、このような作品はあとを絶たない。たとえば小林久三著『錆びた炎』(角川書店)などは、最近の目立った例のひとつと
いえよう。
子どもの誘かいを扱ったこの小説は、雑誌発表直後にこれをまねたとも思えるような事件が実際におきて話題を呼び、映画化も進んでいる。だが、作中に
織りこまれた血友病の描写は、現代医学では考えられない内容で、作者の意図するしないは別にして、結果的にはこの病気に対する偏見を助長しかねない恐れ
さえあるものだ。
<入院中の血友病の子どもが誘かいされ犯人は病院長に身代金を要求する。子どもは七十二時間以内に救出して輸血しないと危険>という設定が作品の
冒頭にはめ込まれているが、すでに血友病が命にかかわる病気でなくなっていることは、たとえば東京医科大で扱った三百例のうち死亡者は皆無に近い
事実などでも証明されており、「七十二時間」といった設定など医学的には考えられない、と同医大の専門医も指摘しているほどだ。進んだ治療法や新薬の
開発など無視して<八歳までにその六〇%が出血死>などと無神経な表現を使ったり、“注射禁止の薬の注射”を有効な治療法のように書いたり――それも
これも、たとえフィクションの世界であろうと、人間を道具として扱ってもいっこうに恥じない、最近の一部の風潮から生まれた一例にすぎないのかもしれない
のだが……。
(後半略)
(安間隆次記者)
1977年2月7日(月)『朝日新聞』
■
自作を脚本、プロデュース 小林久三 カツドウ屋推理作家 『錆びた炎』でひとり3役 次作は監督も…
(前半略)
朝日新聞の書評欄に原作を“粗悪品の代表”だと書かれた。
……僕は血友病専門家じゃないんです。だからデタラメを書くわけがない。医学大辞典という、当時最高の権威書を読んで書いています。それにあの小説は原稿用紙
518枚、そのうち血友病の個所は1枚半しかありません。その全く点景描写でしかないところをとり上げて、小説全体をデタラメだとやっつける。あまりにもムチャクチャ
な話でしょう。
普通だったら黙って泣き寝入りが、この世界の常識。下手に突っつくと、必ず何かのしっぺ返しがある。だが、抗議に行った。鼻っ柱の強いのがカツドウ屋魂。
作家の顔が隠れる。
……別に返事はありませんでした。でもいいんです。自分自身、粗悪品だと思っていないし、書き終わったものには、そう興味が残らない方ですから。次回作が、
私にとっては、いつの場合でも代表作なんです。
まるでチャップリンのような言葉を吐いた。
こばやし きゅうぞう。昭和10(1935)年11月15日、茨城県古河市の生まれ。東北大学文学部卒業後、昭和34(1959)年松竹入社。助監督からプロデューサーになる。
7年間の助監督時代は、主に木下恵介、川津義郎両監督につく。
「これまでは映画化を考えずに書きましたが、これからの小説は映画化することを前提に執筆します。もちろん、できれば自分が監督し、松竹で撮りたい。社員だから
決して他社では撮るつもりはない。会社員としてのルールでしょう」
47(1972)年『腐蝕色彩』で小説サンデー毎日新人賞、49(1974)年『暗黒告知』で江戸川乱歩賞を受賞。
代表作は初めて映画化された『錆びた炎』のほか『黒衣の映画祭』『裂けた箱舟』など多数。
このあと「小説現代5月号から『卍(まんじ)の爆走』という短期集中連載を始めます。これなんかぜひ自分の手で映画化したい」という。
サスペンス映画の最高傑作は『太陽がいっぱい』でその次が『第三の男』と評価している。
(ペン・浅野潜 カメラ・池田信一)
1977年2月27日(日)『東京スポーツ』
*文中の西暦は北村による
■
血友病正しく伝えて 誤解招く映画「錆びた炎」 患者が訴え
映画の中で扱われている“血友病”の描写が現代の医学常識を正しく伝えておらず、誤解や偏見を生む恐れがある−として、関西に住む血友病患者が、映画会社に観客に
正しい医学知識や患者の姿が伝わるようなチラシの配布などを申し入れることになった。
映画会社に申し入れをするのは西宮の印刷所勤務、伊地知健さん(26)や神大医学部3回生、西田恭治さん(22)ら患者グループ。
この映画は松竹株式会社の「錆びた炎」で、26日に封切られた。江戸川乱歩賞作家・小林久三氏の同名の小説を映画化したもので、入院中の血友病の子どもが誘かい
され、犯人は病院長に身代金を要求する−といった推理作品。小説発表後、これをまねたと思われるような事件が実際に起きて話題を呼んだ。
血友病は、血液中にある凝固因子が先天的に欠乏しているため、血液凝固障害を起こして、出血が止まりにくい病気。日本では全国に約3000人の患者が確認されて
いる。
小説や映画の中では「子供は関節出血しており、72時間以内に救出して輸血しないと生命にかかわる」といった設定や「8歳までに60%が出血死」「かすり傷をしただけ
でも死への引き金になる」といった表現が使われている。
ところが最近では医学が進歩し、専門医の間では「輸血に変わる薬も開発されて止血が容易になり、外科手術にも耐えられるほどで、生命にかかわる病気ではなくなって
いる」という。
このままでは誤った形で血友病が受けとめられる恐れがある−と、西田さんら関西に住む青年患者が集まって相談。「これを機会に正しい姿を知ってもらおう」と立ち
上がったもので28日にも大阪の松竹関西支社を訪れ要望したいとしている。
伊地知さんらは「患者側からの抗議に対して、著者と出版社は、誤解を生む恐れのある点を認め、3版までの在庫本は回収、4版から専門家の話をもとに血友病の部分を
書き改め、おわびを入れたいと約束しているが、映画という強力なメディアを通して、何も知らない人に血友病は恐ろしい病気だという間違った知識がばらまかれ、入学
や入社、結婚などの患者の周辺に影響を与える心配も強い」と訴えている。
1977年2月28日(月)『神戸新聞』
■
偏見を助長する記述やめて
学生 岩下 治 20
私は血友病という病気をもっている一大学生です。最近、埼玉のベーチェット病の施設建設問題など病気で苦しんでいる人々が誤った知識や不用意な憶測によって
不当に社会から締め出されるような状況が目立つようになってきました。同じように、病気で苦しんでいる私たち血友病患者にとってもこのような状況は非常に
腹立たしいことです。
このような中で最近、出版された小林久三著の「錆びた炎」という本には、血友病患者の記述で、誤りや現在の状態とは明らかに異なるものが、平然と書かれています。
このような血友病に関するいい加減な記述をされることは、社会に血友病に対する誤った知識を与え、偏見を助長することにもなりかねます。それにより、具体的には
就学、就労問題等で血友病患者の権利が不当に奪われることになりかねません。
たとえこのことが小林氏の本意と異なるとしても、結果として、そのような状況をつくり出すことは確かでしょう。そして、このようなことを私たちが許し、放置する
ことは血友病患者の不利益をまねくだけでなく、第二、第三の小林氏を生み、病気と闘いながら生きているあらゆる人々の権利と希望を奪うことになりかねません。
そういう意味で今後、この種の事柄が起こらないように、私たちはしっかりと目を見ひらき、行動することが必要だと思います。
(東京都狛江市)
1977年3月2日(水)『毎日新聞』
■
対談 森村誠一 VS 小林久三
推理小説の中の事件と現実の犯罪の差
(前半略)
森村 推理小説と現実の犯罪のいちばん大きな違いは、推理小説では作者が都合のいいように状況を設定するということですよ。
それが、小林さんの『錆びた炎』の場合、血友病という病気なんです。その病気によって、72時間というタイム・リミットをかける。それによってサスペンスを盛り
あげるわけですよ。
それを、朝日新聞が医学的なミスがあると叩きましたが、これは、推理小説が知的ゲームだということを、まったく度外視しちゃってる。血友病はたんなる道具だての
ひとつであり、その医学的な記述だけをとりあげて、作品全体を否定するのはおかしいですね。
(後半略)
『女性セブン』1977年3月17日号 p182
■
「血友病」織り込んだ推理小説 医学界に波紋
「ひどい誤り」患者抗議 “根拠”の辞典 あわてて書換え
江戸川乱歩賞の小林久三氏が書いた推理小説「錆びた炎」(角川書店)のなかで「血友患者* の60%は8歳以前に出血死する」などとある記述が「誤りである」と
患者団体の問題になっている。この小説は原作者がプロデューサーとなって映画化、現在松竹系で封切中。著者は本の記述を一部手直しし、松竹側も患者団体が書いた
「御観覧の皆様へ」と題するパンフレットを封切館に置いて客に配ることで、いったん話合いがついたが、若い患者たちの一部が「全く問題が解決されていない」と
抗議を続行。著者の「医学辞典に基づいて書いた」との説明から出版元があわてて辞典の書きかえを始めるなど、波紋は医学界にも及んだ。戦前の常識が存続し、誤解の
まま社会的にも通用していた事実が浮彫りにされたことに患者たちは根の深さを感じている。
「錆びた炎」は小林久三氏が角川書店の月刊誌「野性時代」に掲載、今年1月、同社から単行本として出版された長編推理小説。大病院から5歳の血友病患者が誘かい
され、犯人が両親でなく病院長に身代金を要求。総合病院を経営しながら私立医大の設立も計画、営利追求と医学界での勢力拡大を夢みる院長はこの要求を冷たく拒否
し、院長一家の複雑な関係が次第に明らかになる。院長家のお手伝いが犯人の誘導で身代金を地下鉄で運ぶが、子供は72時間以内に救い出して輸血しないと生命が危ない。
犯人のねらいは? 子供の生命は?――といった筋立てで、血友病がポイントのひとつになっており金もうけ主義がはびこる現代医療の問題も浮かびあがる“社会派”
作品。
東京世田谷区の関東中央病院から連れ去られた勇弥ちゃん事件のときも、この小説がヒントになったのではないかとさわがれた。
血友病に関する説明が「全く時代錯誤で読者に偏見を与える」と患者たちが問題にしはじめたのは2月ごろ。
指摘されたのは「患者の60%が8歳以前に出血死するといわれる」と2回繰り返される記述(36ページ)のほか「やがて関節を腐らせ」(同)「止血用のトロンビン注射」
(37ページ)「輸血は最大限に見積もって計算しても72時間以内に行なわれることが必要」(同)など、ある患者が調べただけで7ヵ所にのぼっている。
これらの点について、東京医科大臨床病理学教室、藤巻道男助教授(厚生省研究班メンバー)は「血友病の医学水準の現状から見るとほとんど誤り」と指摘する。
血友病は血液を凝固させる血液中の因子が生まれつき欠けているため、出血時に血が固まらず止まらなくなる病気。しかし、同教授は、この凝固因子を正常人の血液中
から精製したAHF製剤などを注射すれば、かつてのように輸血を続ける必要もなく出血は止まる。日常生活にも大きな心配はほとんどいらないと説明。
同助教授は「厚生省研究班のデータでも8歳以下の死亡率は2%ぐらい。私は300人ほどの患者をみているが、8歳以前にはほとんど死なないし、長生きする人も多い。
またトロンビンは傷口に塗って止血するための薬で、注射すると患者は死んでしまう。交通事故のような大量の出血の場合以外は輸血は必要ないし、作品中の子供の
ように関節出血のケースでは72時間以内に輸血しなければ死ぬなんてことはありえない」といっている。
これらの点についてすでに「東京ヘモフィリア(血友病)友の会」は原作者側と話し合い、印刷中の4版で一部を訂正、専門家の解説を入れ、松竹側も同会の
パンフレットを映画館に配布することになった。しかし、若手患者の一部は「血友病にたいする偏見をなくす会」(代表、木野内荘三さん)をつくり「血友病患者を
道具立てに使い72時間というタイムリミットをもうけることで、ゆがんだ患者像をつくることになる」と抗議行動を続けることになった。
これらの動きに対し小林氏は「血友病に対する記述は作品中のわずかの部分。友の会の幹部とは話合いがついた。私は南山堂医学大辞典を参考にしており、研究不足は
認めるが、トロンビン注射以外に根本的な間違いはない。私自身、患者への偏見には怒りを持っており第4版で訂正したのも作品を正確にしたいという作家の良心からだ」
といっている。
「戦前の常識」が改定されずに
南山堂医学大辞典は31年に初版発行されて以来10版を重ね、医学生向きの辞典として隠れたベストセラー。南山堂編集部の話では39年発行分以後、内容は変わって
おらず、血友病の項目では「8歳以前で60%が出血死」などの「戦前の常識」(藤巻助教授)が書かれている。同編集部では全部書きなおすと言う。しかし、患者の中には
「長い間、見過ごしてきた医師たちにも不信が残る」という人もいる。
1977年3月13日(日)『毎日新聞』
* 上記記事の「血友患者」は「血友病患者」の誤り
■
血友病への偏見を促す小林久三(「錆びた炎」著者)に抗議する!
皆さんは、
小林久三著の推理小説『錆びた炎』を読まれたでしょうか? また同名の松竹映画を御覧になったでしょうか? あの中に描かれている血友病と
いう病気についてどう思われました? 恐い病気だなんて思われたのではないでしょうか?
しかし、血友病とはそんなに恐ろしい病気ではないんですよ。血友病は血液を凝固させる因子の1つが不足しているため、血が一般の人に比べて少し止まりにくい
病気ですが、近年有効な治療薬の開発により、血友病患者の社会生活を充分可能にしつつある状況にあります。
今年1月に角川書店より出版されたこの小林久三『錆びた炎』の中には、実際にはショックを起こすような注射を有効であるとか、患者の60%が8歳までに出血死する
とか、出血すれば72時間以内に処置しなければ生命にキケンがあるとか、その他にも医学的に明らかな誤りが見られます。さらには「転んで膝をすりむくような事が
あればそれは死への引き金になる」とか、「隔離保護しておくしか方法がない」とか、血友病患者への全く誤ったイメージを与えるような記述がなされています。
これに対し小林久三は「根本的には謝っていない」(3月14日付毎日新聞)と言ってますし、患者数は全国で5000人はいると見られている血友病を「たんなる作品の道具
として扱っただけ」との言動も聞かれます。私たちは、ただでさえ現存する偏見のために進学・就職・結婚等、多くの問題をかかえているのに、さらにその
偏見を
温存助長するような『錆びた炎』は、血友病患者の生存権をもおびやかそうとしています。
『錆びた炎』第4版からは医学的記述の一部だけを手直しし、続けて発行されていますが隔離保護的な記述はそのままですし、その上第4版の<あとがき>では、小林久三
は「この修正は私の個人的良心によるものであってそれ以外のなにものでもない。」と書いています。
私たちは、これらの誤った血友病のイメージを流した小林久三の社会的責任は非常に大きいと判断し、小林久三に強く抗議します。
どうか皆さん。私たち患者の意を汲みとり、かつ、血友病とはあの小説や映画に描かれているようなキケンな病気ではないという事を充分理解して下さるようお願い
致します。
1977年4月3日
『血友病にたいする偏見をなくす会』関西地区代表 西田恭治
■
紙上犯罪遊戯のルール 森村誠一 著者から読者へのメッセージ
森村誠一長編推理選集第9巻 月報6 1977年2月 講談社
(前半略)
*
これに関連して考えたことであるが、過日の朝日新聞紙上において、「清張と正史の間」と題して最近の推理小説ブームが取り上げられ、小林久三氏の『錆びた炎』
中に織り込まれた血友病の記述が、現代医学では考えられない誤りであると指摘された。この作品は、子供の誘拐を扱っており、入院中の血友病の子供が誘拐され
七十二時間以内に救出して輸血しないと、その生命が危険であるというタイムリミットがかけられている。タイムリミットは、サスペンス効果を盛り上げるために
推理小説においてよく使われる趣向である。それが、この作品においては「血友病」となったわけである。
私などは、血友病の医学的知識がないので非常に面白く読んだが、これが朝日新聞紙上において、血友病に関する記述が誤りであるとされて粗悪推理小説の見本の
ごとくこきおろされた。
これは、時代小説における考証ミスと同種の問題であるが、専門知識がなければ、べつにひっかからずに読み過すところである。つまり、小説を楽しむ上で障碍に
ならない。知らされてはじめて、ああそうだったのかと思うくらいである。
*
作家は人生のすべての面において専門家たり得ないから、専門的事項の記述において、どんな小さなミスもおかさないということは難しい。専門家や書物から取材、
勉強するにしても限界がある。だがこれは作者側の言いわけで、本来作品として発表するものには、作者が全責任を負うべきである。ケアレスミスや考証ミスはあっては
ならないものである。
だが、専門家のみにわかるミスは、一般読者は指摘されるまで気がつかない。
小林久三氏は医者でもないし、血友病患者でもなさそうである。ということは、氏が血友病に関して専門家から取材したか、医学文献に基いて、その記述をしたで
あろうことは容易に推測できる。もし、朝日新聞の指摘の通りその記述が誤っているのであれば、氏の取材先、あるいは氏の拠った文献が誤っていたことになる。
(もちろんそのことによって作者の責任が免ぜられるということはないが)。この点について朝日新聞は、小林久三氏からまったく取材していない。
また、医学のように日進月歩する分野においては、取材が現実に追いつかない場合もある。この作品においては特に昭和何年の話と断定していない。さらにまた、
これが医学の学説上争われているところであれば、ミスときめつけることはできない。新聞紙上で指摘した箇所は、血友病に関する部分だけであり、推理小説の骨格
とも言うべき構成についてはなんら触れていない。タイムリミットをかけるために作者が使用した血友病が誤っているということで、その作品が根本から否定されて
しまったわけである。
七十二時間というタイムリミットは、血友病でなくともかけられる。それが医学的な視点から突かれたわけであるが、作者は血友病を推理小説の趣向の一つとして
使っただけで、人間を道具扱いするような意識はなかったはずである。
推理小説は技術的な性格が強い小説ジャンルである。そのためにさまざまな道具立てが必要となる。推理小説から道具立てを取り除いたら、推理小説は成立しないと
言ってもよい。
したがって、病気や身体障害などの人間の不幸も、道具として使われることがある。その疾患やトラブルによって現に苦しんでいる人達は、自分の不幸を道具に
した推理小説は決して好感を寄せないだろう。
しかし、推理小説はエンターテイメントとしての紙上犯罪である。推理作家は、あくまでも読者に純度の高いエンターテイメントを提供したいだけであって、
他人の不幸を玩ぼうとする意識など毛頭ない。紙上犯罪遊戯という推理小説の“宿命”をよく理解してもらいたい。それを遊戯として認めないのであれば、推理小説は
存在し得ない。
以前の推理小説においては、身体障害者や奇型や不治の宿痾(しゅくあ)などをテーマにして自由に推理小説を書けた。それが現代では、これらの不幸を背負った人々を
テーマ(特に犯人)として書くことは不可能になった。
『ノートルダムの傴僂(せむし)男』や『一寸法師』は現代では書けない。このような時代的制約が、推理小説の幅をかなり狭めていることは確かである。
*
現代の推理小説は昔とは比較にならない広範な読者を獲得している。作家はその社会的影響力を考えて、専門的事項の記述には慎重を期さなければならない。これは
『錆びた炎』一作の問題ではなく、すべての作家が心すべきことである。
だが、朝日新聞の指摘は医学記者によってなされたものではない。記者はまず『錆びた炎』の血友病に疑問を抱いたか、あるいは第三者からその疑問を耳にして
専門家に確かめた上で記事にしたのであろう。
それは推理小説を論じながら、『錆びた炎』においては、血友病に関する部分だけを取り上げたところを見ても、この医学的専門事項を最初からマークしていたことが
わかる。もちろんこの作品は、七十二時間というタイムリミットが取り外されたら成り立たない。いわば、作品の状況設定である。だがこの設定は、他のタイムリミット
を持ってきても、まったく支障がない。朝日新聞の指摘は、推理小説の道具立て(それもきわめて専門的な事項にわたる)が、作品全体に及ぼす影響について、あらためて
考えさせられた。
七百万という広範な読者を擁する大新聞が特定の作品を槍玉に上げる場合は、言葉遣いに慎重を期さなければならないと思う。それは、一人の署名によって書かれて
いても、七百万の圧力がある。医学に関する記述のミスを非専門家が指摘し、それをもって作品を「粗悪品」として一刀両断に斬り捨てたのは、大新聞の権威主義の匂いを
ふんぷんと感じさせる。朝日新聞は、小林久三氏に反論のスペースを与えるべきである。
私は小林氏のしたたかな筆致の推理小説が好きで、愛読しているが、こんなことで氏が今後の執筆に影響をうけないように祈っている。だれがどんなケチをつけようと、
私は氏の推理小説をおもしろいとおもっている。
*
(後半略)
作成:
北村健太郎
UP:20031105 REV:1109,20040109,0420,0717
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血友病
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血友病関連年表
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「神聖な義務」
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「ブラックジャック」
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浦高事件
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小児慢性特定疾患治療研究事業
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掲示板
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