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浦高事件

大西赤人君浦高入学不当拒否事件

血友病 *「神聖な義務」 *「錆びた炎」  *「ブラックジャック」 *小児慢性特定疾患治療研究事業

 1971年3月、大西赤人は浦和高校入学を希望して受験した。試験結果は「優に合格圏内だった」が、入学はならなかった。浦和高校は「入学について念入りに検討 したが、県の現行内申制度の制約のために、つまり、赤人君の内申書の総合評点が低いために、不合格とせざるを得なかった」と言う。その説明に対して、赤人と 父・大西巨人は強く抗議して不合格の撤回を求めた。その抗議に賛同した人々が「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」を結成し、大きな運動となった。 これが大西赤人君浦高入学不当拒否事件(略して、浦高事件)である。

*関連サイト
◇大西赤人/小説と評論
http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/akahito.htm
◇大西巨人/巨人館
http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/kyojin.htm
◇障害者の教育権を実現する会
http://www.jinken.jp/

■ 大西赤人 僕の「闘病記」1(1971年まで)
(前略)
 色々な出来事があったが、なんとか中学校も修了に近づいた。そして一九七一年に入り、進路選択の時期。勉強は、家に居ても、やってやれないことはない。だから、 高校そのものに、執着はそれほどなかった。しかし、家にジッとしていては、どうしても交友や社会生活から切り離される。そこで、勉強プラスX≠フ主としてX を求めるべく、高校へ進もうと決心。校舎が家に近く二階建てであり、その他、色んな意味で僕の通学修学に最も適当な埼玉県立浦和高校を選んだ。普通でもやらなかった だろうが、一月中旬から入試前々日までの入院で、入試のための勉強は、ほとんど皆無に近かった。
 ところで、なぜ、闘病記≠ノこのようなことを書くのか。それは、この浦高入試で、僕は、一自分の体が悪いという事実を、初めて露骨な人権侵害・差別の対象に されたからである。埼玉県の高校入試制度を、ここで簡単に紹介しよう。入試成績と内申書(中学時代の成績を全九教科について記載した物)とを同等に評価。つまり 内申書重視である。入試一発屋はなくなるのだ。僕は、この内申書の総合点数が低い。実技四課目の低評点が響いたのである。だから、入試で相当高い点を取っても、 内申書と見合わされて機械的・形式的に評価されると、不合格になる可能性が大きい。しかも、身体の障害が不合格の材料にされることもあり得る。そこで前もって (一九七一年一月二十五日)父が、浦高に出向き、浦高校長と面談して、そのことについて尋ねた。すると校長は、ハッキリ次のように答えた。

一 、赤人君の修学実情に基づく内申書の内容については、それ相当の考慮をもって、実質的に評価することが出来る(筆名注・これこそが真の意味の「内申書重視 だ」)。
二 、赤人君の身体条件は、全く入学拒否理由にならない。
三 、他の高校よりも、本校のほうが、最もよく赤人君の状況を理解し、その学習に協力し得る。
四 、赤人君のような特異体質障害者の入学は、本校全生徒に何かと好影響を与えるに違いない。
五 、入学願書の提出は結構である。

 これを聞いて、家中が、とにかく安心した。入試(学力検査)さえ、ある程度の点を取れば、合格する、という自信が出来た。そして、三月二日の入試を受けたのである。 浦高校舎玄関口までは乳母車だったが、そこから試験場の保健室−−当日病気の受験者数名が居た−−へは、松葉杖で歩いて行った。入試翌日の新聞に載った模範解答を 見てみると、試験の成績は、まず合格可能の成果を上げたと信じられた。
 ところが、三月七日の発表では不合格。僕としては、なんとも腑に落ちなかった。そして、おかしな選抜事情が、やがて露呈し出したのである。三月九日に浦高教頭他 一名が、家にやって来て、「赤人君の入試テストの成績は、優に合格圏内だったので、浦高は、入学について念入りに検討したが、県の現行内申制度の制約のために、 つまり、赤人君の内申書の総合評点が低いために、不合格とせざるを得なかった」というような説明をするのだ。こんなことが承認できるだろうか? 校長の言った 五原則は、どこに行ったのか? 内申書の額面総点が低いからこそ、父が、事前に校長(浦高当局)を訪れて、質問もし説明もしたのだ。それに対してあのように答え、 後になると、「内申書が悪いので不合格」などとヌケヌケと言っている。
 その後、結局、浦高は僕の先天性特異体質による身体障害を不合格理由にしたのだ、という事実が、徐々に明確になってきた。この不当な処置に抗議して、父は、浦高 および県教育委員会と談判したり、二度にわたって文部大臣宛《あて》の公開状を雑誌(『婦人公論』一九七一年七月号および十一月号)に掲載したりしたが、まだ埒は あかない。浦高の態度には、不審な点が続出する。しかも、県教委教育局の一指導主事は、「浦高は頭も一流・体も一流≠フ者たちだけが入学するのだ」と恥知らずの ことを公言しさえしたのだ。もっとデタラメな現象も、たくさんある。
 だが、吉報もあった。この浦高の処置に憤慨した教員、会社員、主婦、学生などの人々が中心となり、大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会=i筆者注・ 後《のち》に障害者の教育権を実現する会≠ニ改称)が発足した。一九七一年十月十六日には約百名が出席して、浦和市民会館で結成大会も開かれた。全国各地から会員 が増え、会員数も二百人を越えた。僕と同じような不当なケースが、過去にしばしばあったこともわかってきた。
 この事件に対して様々な誤解もあるようだが、これの根本的問題点を皆に理解してもらいたい。障害者には、教育が一番必要ともいえる。その障害者が、現状では、希望 する学校になかなか入ることができない。会は、県教育局に何度も交渉を行ない、選抜事情再調査に追い込んだ。すぐに解決はしないだろうけれども、必ず最後まで追及の 手をゆるめはしない。
 先ほどの浦高関係者たち(あるいは世間一般の多くの人々)は、血友病とは、ちょっとしたことで血が吹き出す、というような過大印象を持っているらしい。むろん そんなことはない。しかも、現在では「AHG」のような特効薬もある。早晩もっと決定的な療法も発見されるだろう。
 とにかく、僕は今後も「気を落とさず、積極的に」生きて行くつもりだ。


■ 大西巨人 障害者にも学ぶ権利がある

 障害者の教育には、多くの重要問題がある。中でも障害者にたいする教育上の差別には、大問題が少なからず存在する。この差別は、「憲法」第26条「教育を受ける 権利」への直接の侵害であり、「教育基本法」第3条「教育の機会均等」への端的な背反である。
 そういう差別の一実例を、しかも私に身近な一実例を、私は、提示する。事は私の息子に関しているから、この私に「私憤」の激動があることを、私は否定しない。 しかし同時に私は、私の「憤」の普遍性を確信し、またこの一実例が障害者にたいする教育上の差別一般に直結していることを確信する。それならば、実質上この 「私憤」は、すなわち「公憤」にほかならぬのでもあり、この種の「憤」を普遍化すること・この種の「憤」の対象を取り除くべく努力することは、人間・言語表現者と しての私の当為でもなければならない。かくて、あえて私は、この「私憤」あるいは「私事」を公衆の前に差し出すのである。
 私の長男赤人と次男野人とは、ともに血友病者(出血素質者)として生まれ落ちた。血友病にも軽症と重症の異同があり種種の程度があるが、この兄弟は、どちらも 相対的重症者に属する。血友病重症者の成長生存は、特に幼児期ないし少年前期において、多大な病苦困難とのたたかいの連続を呈する。特徴の一つは、膝、股、肘など の関節に内出血がしばしば発生することであり、その上ともすればついに当の関節が硬直することである。ただし血友病の病状が患者の成育につれて自然に次第に軽減 することは、医学上定説になっている。加うるに、近年における「濃縮抗血友病性グロブリン蛋白(AHG製剤)」の開発によって、血友病性諸疾患は、現在かなり強力に 治療または予防せられることができる。
 赤人は、学齢に達したころ、すでに右膝関節に硬直が来て、コルセットをつけていた(第一種身体障害者2級)。彼は、大宮市立大成小1年のほとんどを自力で通学し 得たが、やがて浦和市立北浦和小2年へ転校し、その第1学期初めに左膝関節をも侵されて、歩行がいっそう難儀になった。そこでその後5年間、赤人の母(つまり私の妻) 美智子が、特製乳母車で送り迎えを行ない、あるいは時間割に従って特別教室の移送に当たった。赤人は、体育の時間にいつも「見学(実は主に教室で自習)」をせざる を得ず、それに在宅もしくは入院の療養のため相当日数の欠席をしたけれども、さいわいに学業ではまず人に遅れを取ることなく、またさいわいに出席中に血友病性事故 に見舞われることなく、卒業した。彼の性向は快活明朗であって、学友たちとの間柄も終始好調であった。
 赤人が浦和市立大原中1年に入学したとき、野人は北浦和小1年に入学した。野人は、やはり関節内出血などの症状に悩まされつづけてきたとはいえ、どこにも格別の 障害を現わしていなかった。しかし、たとえば過度の歩行は、とかく足首、膝、股などの関節に内出血を生ぜしめる。それで今度は、特製乳母車で野人の送り迎えをする ことが、美智子の仕事になった。われわれは、いろんな思案投げ首のあげく、タクシー会社と特約をむすんだ。こうして赤人のタクシーによる通学が始まった。
 大原中の校舎は4階建て。例年3年各組には2・3・4階各教室が指定せられる。このことは、赤人の受業および登下校に新たな面倒不便を来たす。すなわち大原中は、赤人 の1年2学期から教科教室制を採用してきたので、元来の面倒不便が3年においてますます増加せられる。それゆえ彼は、2年修了ののち浦和市立木崎中へ転校した。木崎中 の校舎は2階建てである。こちらは、教科教室制を採用してもいない。
 中学における赤人の状況は、欠席日数、主要学業、血友病性事故、学友たちとの間柄に関して、小学校におけるそれとほとんど同様であった。ただ中学では、彼は、体育 の時間にだけでなく、音楽、美術、技術、理科実験の時間にも、だいたい一人きりで「自習」をせざるを得なかった。半面ではそれは、美智子または私が、(小学校の場合 とは違って)当該時間のたびに中学に出向いて赤人の移動に手を貸すことを実際問題として行ない得なかったからでもあったろう。したがって、(理科は別として)むろん 体育の評点は最低であって、他の実技3科目の評点も良好ではなかった。校内・校外模擬テストの成績は、おおむね上等を示し、あるときは最上等を示し、進学方向決定の 主要目安の一つ「浦和市一斉テスト」(今年1月)の成績も、最上等を示した(いずれも大原中ないし木崎中において)。
 赤人の進学について、「身体が悪くても、小中学は義務教育だから、まずまず入学に問題がなかったかもしれないが、高校大学の場合は、それがそうも行かんのじゃない か。無理をして(全日制普通高校に)進学通学することなんかしないほうが、むしろ本人の幸福だろう。」という類の意見を、従来私は、何度も聞いていた。
 そういう意見の現実性を、私は遺憾ながら必ずしも否定し得ない。だが、そんな意見の根底には、基本的人権および義務教育または教育一般にたいする素朴無残な考え 違いが存在する。義務教育の義務は、もっぱら保護者にかかわる。そして義務教育を含む教育一般の義務あるいは責務は、主に国家公共団体にかかわる。ところで子女に おいては、小中学に入ることも高校大学に入ることも、ひとしくひとえに「教育を受ける権利」の行使にほかならない。あの種の意見は、本質的にあさましい俗論であり、 原則的に非道なあやまりである。客観上それは、障害者にたいする差別を固定または促進しつつ、非人間的「人材開発」政策に屈服的に奉仕する。
 1月25日、私は、面会申し込みの公的手紙と参考資料(赤人の既往現在を記事にした2、3の新聞雑誌)とを埼玉県立浦和高校長に届けた。翌26日、私は、浦和高校長室で 校長と面談した。校長は、次のように言明した。
 ―― 一つ、赤人の修学実情に由来せる内申書の額面上成績にたいしては、それ相当の考慮をもって実質的に評価することが可能である。二つ、赤人の身体的条件は、 まったく入学拒否理由ではあり得ない。三つ、他の高校よりも、本校こそが、最もよく赤人の状況を理解してその勉学に協力し得るであろう。四つ、赤人のような特異 体質障害者の入学受業は、本校諸生徒に何かと好影響を与え得るにちがいない。五つ、入学願書提出は結構である。
 それらは、まさにしかるべきことながら、やはり私は、感動して一安心した。1月28日、私は、赤人の入学願書を木崎中校長に託した。
 赤人は、1月13日、東京医大病院に入院、2月27日退院(その間の後半に訓練を受けて、歩行がかなり自由になった)、3月1日、受験。3月7日、入学許可候補者が発表 せられたが、そこに彼は入っていなかった。
 3月9日、浦和高の教頭と数学教師との2人連れが、例の赤人関係資料を持って私の家に来訪した。赤人の学力検査成績は「優に合格圏内」であったから、浦和高は、 念入りに検討したが、県の現行内申制度の制約のために、赤人を不合格とせざるを得なかった、というのが、両教師の挨拶であった。まともな人人は、誰もこんな不条理 な成行きを納得承認し得ぬはずである、と私は固く信じる。
 3月15日、私は、浦和高で教頭に会い(校長不在)、再検討を求め、再検討承知の答えを受け取り、なお同日、県教委に行き、指導主事に同趣旨のことを申し入れた。 どちらの会談もかなり長時間に及んだが、そこでだんだん明白になったのは、内申制度の件はむしろ表向きの理由に過ぎず、問題は実に赤人の先天性得意体質身体障害に ある、ということであった。事の性質は、いよいよ不当不条理である。
 3月17日、校長および教頭は、再検討の結果(依然不合格)を私に告げ、私の了承を望んだ。私は、到底了承し得ない旨を断言した。県教委、県知事、文部省、文相、 政府、首相が早急にこの「憲法」および「教育基本法」違反を是正することを、私は、強く要望期待する。

1971年3月27日


■ 大西赤人 僕の「闘病記」2(1981年まで)

 浦高の問題については、結論から言えば、ついに納得の行く解決には至らなかった。浦高あるいは県教育局との度重なる交渉の中で、彼らのひどく頑迷で閉鎖的な 考え方がますます明確になり、障害者に対する厄介者扱いがいよいよ露わになっていくばかりであった。
 交渉での進展がないため、一九七三年三月には父が(僕の法定代理人として)、埼玉県教委ならびに浦和高校の両当局者を職権濫用罪(僕に対する不当入学拒否)と 涜職《とくしょく》罪および文書偽造罪(若干名に対する不正情実入学許可)とによって告訴・告発した。しかし、一九七四年一月、浦和地検で不起訴処分決定。これを 不満として父は早速、浦和地裁へ付審判請求を行なった。だが、同年二月棄却。次いで同年三月六日、東京高裁へ抗告。これも棄却。続いて同年三月二十七日、最高裁へ 特別抗告。けれども、これも同年五月二日、棄却に終った。
 即ち、最高裁まで争ったとは言いながら、その対象は直接には不起訴の是非に過ぎなかった。つまり、県教委・浦高の行為は刑事事件とはならずじまいであり、裁判と いうリングへは上がって来ないままに終ったわけである。
 結局、浦高−県教委−検察庁−裁判所とつながる機構において、このような人権無視・憲法違反の障害者差別事件は、ひたすら押し隠し、蓋《ふた》をすべき事柄で あったろう。もし大西の申し立てを認めて、それが蟻の一穴となり、日本中で障害者が勢いづきでもしたらエラいことだ−−彼らはそんなふうに考えたのではないか、と 思いたくなる。
 こうして、僕の浦高間題に限れば解決を見なかったものの、それ以来、障害者教育に関して一般的には、ささやかながら前向きの様子が眼についた。浦高をも含めた 全国各地の高校・大学への障害者入学が、毎春、新聞紙面のニュースとして少なからず取り上げられ、幾らかなり明るい見通しを感じさせなくもない時期もあった(また、 昨今あちこちで盛んに暴露され、問題になってきた不正入学・裏口入学なども、既に僕の告訴・告発事件においてその端的一面が指摘されていたわけである)。
 ところが、一九七九年春の例の「養護学校義務化」あたりを大きな節目に、状況は再び悪化の一途をたどっている。「三歩進んで二歩さがる」ならぬ「一歩進んで五歩も 六歩も飛びすさる」という感じだ。障害を持つ子供は自動的(事実上強制的)に養護学校へ送り込む−−そんなシステムが着実に確立されつつある。総理大臣が「普通学校 と養護学校との選択(決定)権は最終的には保護者が持つ」との当然な主旨の発言をすると、文部大臣が「いや、その権利は教育委員会にある」とデタラメな訂正を行ない、 総理もそれを追認する、という言語道断の有様なのだ。
 最近、小・中学校で、障害児をはじめとする広く「弱者」に対して、陰湿でしつこい弱い者いじめがはびこっているらしい。これなども、「弱者」切り捨てに向かい つつある世の中を反映している。大体、典型的「弱者」たる障害者(児)が普通学級への通学を望む場合、必ず「普通学級のほうが障害児にとってプラスである」という 面が主張され、たしかにそれもその通りだ。しかし、それと同時に、またはそれ以上に、障害児と共に生活することは、一般健康児にとって大きなプラスになると思う。 「弱者」を厄介者扱いすることしか知らぬ子供では、十分に人間的な人間に成長することは決して出来ないだろうから。
(後略)
作成:北村健太郎
UP:20040528
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